アートフルアクションでは、学校連携事業で、小学校では使わない丸鑿(のみ)を使って、硬い硬い桜の木を削って船を作ったり、鉈で竹を割ると言った活動をしてきました。
ここのところ気になっていた『職人の近代』(みすず書房)http://www.msz.co.jp/book/detail/08593.html
著者の土田さんと武術研究者の甲野善紀のトークを聞いた。
詳細は主催者のこのページに詳しいですが、随所に、ものづくりのこと、身体性、技術と社会の関わりについて、とても大切なことが語られていました。
本当の意味の合理、理にかなうということを巡って。そして、人を育てる、というくだりでは、優しさと厳しさと諧謔と、という言葉も印象的でした。
鍛冶屋さんとか左官屋さん、大工、木挽職人、漆職人とか膠の職人、もっといろいろな技術が、社会の需要がなくなって、暮らしから消え行こうとする。あるいは消えていった。その技術を惜しみながら見送るのか、その技術の必然がなくなっても、形骸であっても模造し続けるのか?という、二者択一ではない道がどこかにあるような気がする。
例えば、AIがいいか悪いとか、ECTがいいか悪いのか、という択一ではなく、もっともっと、人の本質を問うことから発想し続けることが第3の道なのかもしれないと。本当に必要なことは何か?人間って、なんだろうって。
根の切れてしまった「伝統」をよく学んで、どうやって足をつなぐのかを考えることも大切なことだと思いますが、暮らしの中にその必然がないとそれは娯楽になってしまうかもしれない(娯楽が悪いわけじゃないけどね)。
けれど、その一方で、根を継ぐことが目的なのか、人にとって何が本当に必要なのかを問い続けて、結果、必要か不要かはわからないけれど、鉋の刃が納得がいくように研ぎ出せたら、それが幸福、という人もいるかもしれない。その人は、飯が食えなくても、鉋の刃を研ぎ続けていられたらいい、かもしれない?ただ、根を継ぐためだけに、ではなく、その人にとって、大切なもの、ことに、出会えさえすれば、それはthe娯楽、ではない、かもしれない。
学校で、小刀も禁止される昨今、人の可能性ってなんだろう?って考えながら、小刀くらいは上手に使えたらいいなあ、と思う。