一昨年の春、写し絵のワークショップをしました。
今年の一月、あらてめて、もう一度、子供達と一緒にやってみようと思います。
影絵と間違われることが多いのですが、写し絵と影絵はまったく異なるものです。
写し絵の作り出す造形は、形を結んだかと思うと次の瞬間にはその形は歪み、崩れ、光の中で異なるものになっていきます。とても巨大な蝶にもなるし、豆粒のようにもなる。意味や名付けを超えていきます。これは写し絵という表現の方法と技術の特性です。
私たちははじめて出会うものの出現に、意味を探し、名をつけることにとても躍起になっています。わからないもの、の出現が恐怖でもあるのかもしれません。でも、名付けをしてしまうこと、意味を付してしまうことで、あっという間に私たちは新しい眼差しでそのものを眺めることができなくなります。思考もとまる。わからないものに出会った時の衝撃は名付けによって、即座に社会化されて定置され、それだけのものになってしまいます。その多くは他者から持ち込まれ、他者によって名付されたもの。そして、なによりも怖いのは、それはそれ、もう、わかったよ、と問い続けることをやめ、そのものから新しい発見が生まれにくくなってしまうこと。考え続けることや探し続けることをやめてしまうことは、ちょっと大袈裟だけれど、大きな社会の既成の価値に巻き込まれてしまって、そこでそれぞれの人がそれぞれの人なりに思考する手足を失うことにもつながる、大袈裟に聞こえるけれどね。
林道郎『死者とともに生きる ボードリヤール『象徴交換と死』を読み直す』から引用。
太字はボードリアールからの引用、中は林さんのテキスト。
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私は思うのだが、イメージは、表象化のはるか手前の直観や知覚の段階で、直接我々に触れることができる。このレベルでは、イメージとは常に絶対的な驚きである。少なくともそうでなければならない。
このイメージは、意味や表象の網目によって捕獲される前の触覚的な脅威の可能性を宿しているのだが、残念なことに、このような「純粋状態」にイメージが止まることはもはや不可能に近い。
イメージの潜在力は、大抵の場合、人々がイメージに語らせようと望むものによって遮断されてしまうからである。
そして、既成のコードに従って、意味の覆いで隠され、現実に統合されてしまう。
イメージは、最も多くの場合、そのオリジナリティ、イメージとしてのその固有の存在を奪われてしまい、現実とのは恥ずべき共犯関係を強いられている。
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写し絵は、この、根源的イメージが「意味」に絡め取られることから逃れ続ける営みでもあり得るのかもしれません。ずれ続ける、「意味」になる前に変容していく。意味と名付けではなく、わからないもの、変化し続けるものとしてそこにあることに、対面しつつ持ちこたえる、そんな経験でもあると思います。もちろん、写し絵という技術は造形的に、奥行きや時間、色や光の奥深い表現が可能なものでもあるのすが。
目の前に立ち現れたものについて、何の前提や誰かがつけた名前や価値もなく、根源的な驚きを持って出会うことは、とても大切なことだと思います。
このことに、子供達と一緒に向き合ってみたいと思います。
上下とも写真撮影:松田洋一