時々、佐藤真の『out of place』を思い出す。
彼が亡くなった年齢を超えて久しく。
そろそろ、また命日で。
とりあえず、DVDを、小さなモニターでみてみることにする。
劇場でもみているし、サイードの『遠い場所の記憶』は、斜め読みを10回くらい繰り返しているから、全部読んでいるかもしれない(笑)。
ドキュメンタリーってなんだろうね。
いろんな人がドキュメンタリーの作品を作っている。いろんな考え方があるだろうしね。撮ることを巡って。
一般的に、撮る者、撮られる者の構図がはっきりしやすいのかな? 対象がはっきりしているからね、主題もね。
でも、なんとなく、『out of place』は、製作時にサイードは死んじゃっていて、その軌跡をおいつつも、『遠い場所の記憶』を説明しているわけでもないし、旅行記でもない。市場のアラブ人がいかに暮らしが厳しいかを語る、サイードの墓を尋ねる、コロンビア大学の同僚のコメントが出てくる、サイードの子供時代の映像と今を生きる彼の子供たちのコメント。その散りばめられたいくつものピースが、どこかの段階で何かを形作ってまた消えていくって感じもする。
サイードの発言集成 『権力、政治、文化』の第8章、「文化と帝国主義」の中に、変奏曲の構造が「文化と帝国主義」を書くときにこの上なく有用である、という記述がある。<自分の本を厳密な学問形式をモデルにするのではなく、音楽という芸術をモデルにして組織しようとしたのですーー変奏の積み重ねというアイデアが、この本の、実際の構成方法であると思っています。相互に依存する複数の歴史、重なり合う特徴といった考え方が、そして、この種のことすべてが、この本の構成要素としてとても重要な役割を果たしているのです。> って。ふむふむ。
なるほどね。だから、佐藤真の「out of place」が好きなのかな。おもしろいな。