2018-09-26

『15少年漂流記』を覚えていますか? … | 2018-09-26 10:18:13

『15少年漂流記』を覚えていますか?

私は小学5年性の時に夏休みに感想文を書きました。
それ以来、『2年間の休暇』を含めて何冊かの異なる翻訳本を手元に置いています。
ちなみにヒルダ・ルイスの『飛ぶ船』も、大好きです。小学2年性の時に自分で初めて一人で本屋さんに行って選んだ。田舎道。

ここのところ、よくこれらの物語は何だったんだろうと考えます。ベルヌはなぜこれを書いたんだろう?
(私はベルヌのような人、ヒルダ・ルイスのような人に会ってみたいとねがっています。ついでに、デラメア(この人のことについてはまた書きたい)にも。 「盗まれた飛行船」は、今はなき吉祥寺のバウスシアターで見たっけ。迷作?名作?)

15少年は、こども「たち」の冒険譚で、精神科医のサリヴァンが(うる覚えだけれど)前期思春期の少年たちのギャング時代がその後の精神の成熟にとても大切、と言っていることも重なります。大人の庇護や目線のない否応無しの場面で、やっと、人間の素の顔が見えたり、潜在する可能性が発現したり、創発される。その背景や前景にはその子供だけの大きな物語があるはず。サリヴァンは、大人になった時にギャング時代が大切、と言ったとして(うる覚え)それにしても、子供は大人になるために生きているとも思っていなかったはず。子供はその瞬間瞬間に、全体として一つの人格であると、私は思う。もちろん、一人じゃ生きられないけどね。

でも、数年、小学校の授業に関わって見えてくるのは、私自身のもつ 「こどもらしさ」 に対する勝手な幻想や思い違いと同時に、埋没するその子自身の個性。愛されることと相手におもねることが背中合わせ、つまり、こうしていたら愛されるはず=愛されないことの怖さ、なのかな、と思ったり。愛されたくて暴れている子供はまだわかる。そもそも、愛されること、などから遠く離れてどこか遠くの世界にいるのかな?と思える場面などなど。

大人と子供の距離がなんだかよくわからない。子供は大人の顔色を見ることをよく知っている。この人は気に入っているのかいないのか。そして、無自覚にも、私自身がそのことに寄りかかっていたな。おもねていたな。

そこで、今年の小学校のプロジェクトは、これまでのやり方を180度転換。このことに無責任に関わっちゃいけない。
副題は全て、15少年漂流記。

子供の、あるかないかの願いを大人の力で形にするのではなく、結実しなくてもいい、とにかく、自力でやってみることを肯定する。答えはない。
これまで限られた時間に何かしらの「かたち」にすることに大人は奔走してしまった。もちろん、もちろん、これは悪意ではない。普段の授業ではできないことはできたし、そこでの大人と子供の、家庭や学校にはない関係はとても大切ともいえる。でも、これって、大人の満足? これは、ここまでいろんなプログラムを作ってきた私自身の大きな反省。

そして、最も大きな契機は、複数の小学校の先生から、今年、改めて聞いた。大人の指示を待ち、顔色を見る子供たちのこと。

言われた通りにやったから良いでもなく、手伝ってくれてありがとう、でもない。もっともっと、小手先ではない何かを探してみたい。
学校でのプロジェクトは、かかわる大人自身が自分の欺瞞を問い返す機会となることも多い。でも、この場は大人の学校でも大人の自己表現の場でもない。

そんなことを、これかで参加してくださった皆さんとも語りたい。
本当の意味の、尊厳って、なんだろう? この社会で、子供の尊厳、人間の尊厳が大切にされるってどういうことだろう? って。