先々週くらいから、小学校の先生方といろいろなお話を始めた。
学校の様子を聞いたり、物事の決め方、決まり方(学校を巡る意思決定ね)について、話をした。
その中で、うすぼんやりと頭をよぎるのは、青山真治の『ユリイカ』だ。バスジャックに遭遇した姉弟とバスの運転手のロードムービー。
ノベライズとしては、よくかけていると思う。これも。
ユリイカの子供達も今の子供達も、トラウマとか癒しというのは簡単だけれど、そんな言葉で括れない、表面的に見えない、言語化できないところで、理屈ではなく、肌で目で心で物事を捉える結果、手の届きにくい深い深い水の中にいるようだ。人は傷つくし壊れる。声高に叫ばなくても、暴れなくても、ひたひたと。文科省の皆さん、『ユリイカ』(タイトルだけで終わらないでね)は、いま、そこかしこに起こっている気がしますよ。でも、役所広司演じる沢井さんは、そこかしこに居る人ではないよね。
一方で、待っていた本が昨日届いた。
『治したくない』。
20年くらい前に、
『悩む力』を、とても興味深く読んだ。
『学校は工場ではない』、『むずかしい時期の子供たち』も。これは、もっと前かな。まだ買えるかな。一円だ!買っても良いよ、みんな。図書館で借りても良いけどね。
みすず書房シリーズだ(苦笑)。
「治る」、とか、the「普通」の人、とか、良い子っていうんじゃなくて、その状況の時に、その人がそのようにしか居ることのできないことに、どんな風に出会うのかな。その出会いの中で、その人から照り返される光で、見えてくる何かもあるよね。ポツポツと、一人一人が誰かを教育するとか、治すのではなくて、お互いに教室の面談や診察、みたいに真向かいにならずとも、正座して正対しなくてもね(笑)、すれ違い際にでもね、ふと光が射すと良いね。自分を照らすために他者が居るのではなくね(ここ、大事なところだ)。視線を合わせることすら難しいという話を聞いた。でも、お互いの存在が、少しでも空気を揺らすと良いかもしれないね。視線を合わせなくてもね、そこに居るだけで空気は流れるしね。長いね‥。