2017-09-24

小金井市の計画の実施事業として、<芸術文… | 2017-09-24 21:26:48

小金井市の計画の実施事業として、<芸術文化の力で人と街を豊かに>というミッションの実現のための活動を始めて9年、これまでに何をして来たのか、何ができて何ができなかったのか、はたまたこの活動は私たちの何を露わにしたのか?を、自己評価として取りまとめる活動をしています。(文章長い)

取りまとめに向けて、関わってくださった市民の皆さん、専門家の方々、共に活動してくださっている小学校の図工専科の先生方にお話を伺っています。昨日はその3回目のヒアリング。

これまで私たちが学校で行なった授業について、

・答のわかったパッケージ化された授業やプログラムではないこと

・地域の様々な大人が学校に関わること

・普段の授業に比べたら、失敗やうまくいかなかったことを見直して、やり直してみる時間と伴走してくれる人がいること、などといったお話を伺いました。

面白かったのは、消極的な能動性ということ。色々な個性の子供達がいる。オープンに物事に向かってこられる子供もいる、退屈したら、退屈をあからさまに表現することができる子もいる。けれど、関心があってもなかなか手を出せない、体が動かない子もいる。そんな子供が黙ったままであっても、全身を耳にして、目にして、事の次第を見守っているような瞬間。目には見えにくいけれど、普段の授業ではもしかしたら気がつかないかもしれない、その子の中に満ちてくる力。好奇心。私たちが関わる時だけが活動の時ではなく、この、消極的な能動性が、ある時、別のものに出会った時に、足をふみだすきっかけになるかもしれない。

自画像を描く時には、なかなか描けず、のたうって苦しんでいる6年生もいた。「できねーよっ」と叫んでいた。自我って何だろう、自分って何だろうという大きな問い。大人は描いてあげることはしないし、手も貸さない。でも、その子の苦闘を見守る。ゆっくりでいいよ、自画像の自我って何だろうね、自分らしいって何だろうと、緩やかに通り過ぎたり語りかける大人たち。でも、手は貸さない。この程度でいいよ、何でもいいからやってとも言わない。

一週間考え続けた少年は、翌週、描いた。少なくとも、一週間考えて。密かに、その子だけ真っ白の紙が展示されたらどうしよう、と、考えていた大人たちもいた。ああ、彼は描いたんだな、ってみんなが思った。それは彼が描いた、ということより、仮に白紙でもいい、他の人と違っていても全く構わない。その子供がその子供として、自分自身について考えてみた、ということこそがとても大切な気がした、ということかもしれない、などと。

話は尽きず、4時間に及んだ。

参加してくださった先生方、お忙しいところ感謝します。

ちゃんと、取りまとめて、反省もします。でも、新しいこともずっと試みていきたいとも思います。引き続きよろしくお願いします、と後ろ姿にご挨拶。