2019-07-22

ある日の本 苛烈な記録であると同時… | 2019-07-22 13:28:25

ある日の本

苛烈な記録であると同時に、愛の本でもある、かもしれない。読み方によってはね。

特にこの数年間、福祉施設の方々と仕事をする機会にも、小学校に出かける際にもいつもとても気になった。
私たちは授ける人ではない、かといって遊び相手でもない。こっちは良いからこっちにおいで、素敵な世界があるよ、といって子供を引っ張ることも、福祉施設で、彼らはとても素晴らしい存在で、私たちこそが学ばせてもらっている、というのも、所詮はこちらの立場を棚上げした自己満足。出かけていく場は、私たちの自己表現の場ではない。どれだけ私自身が問われたのか、問うことができたのか?ずっと気になっている。ずっと、自省。

ヴィータ ――遺棄された者たちの生

著者は医療人類学の大家で宗教学の学位もある人で、もちろん調査のフィールドとして、ブラジル南部の保護施設「ヴィータ」――そこは行き場をなくした薬物依存症患者・精神病患者・高齢者が死を待つだけの場所だった。(アマゾンの紹介文ね)ーに赴く。

ブラジルの現代社会の諸問題?!、医療が人をどう扱うかという問題、も、もちろん重大な課題。けれど、私は調査対象と調査する人がどんな風に出会うのだろう、そこに存在する相互の尊厳ってなんだろう?と思う。

苛烈な人生を生きてきた一人の女性の聞き取りを始めるわけだけれど、the対象、でも、過度の感情移入でも、社会の不平等を学術的に解き明かすだけでもなく、人が人とどのように出会うことができるのか、と、その可能性、理解の可能性を拡張する試みでもあると思う。人間としての共感も、出来事を理解することができる分析能力も必要だ。そして、きっと、なによりも人間に対する深い関心と共感と相手に対する尊厳なんだろうな、抑制された筆致から。もちろん、研究者だからね。

そして、翻って。我がこと。
つまり、良いことやっているからいいでしょ、ではなくて、素人の良さもあって良いのだけれど、やはり、私たちも人とはなにか?ってことを、深く深く学び続けなければ、それぞれの現場においそれと入って行っちゃいけないのかな、と思う。

専門書かもしれないし、厚いけれど(だから(笑)?)、精読の書。

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