突然ですが、私の夫の母は昔じぶんの家で文庫をやっていて、夫実家にはいっぱい本があります。
夫の実家を年末に大掃除して、竹内敏晴やチェーホフの古い書籍が埃かぶってたくさんあって、いたく感動してしまいました。
本との出会いにも、人の出会いと同じように、出会うタイミングに出会うべくして出会うというか、そういう不思議なことがあるような気もしています。
まあそれは置いといて。
テレビで見た障害者の話しぶりが、私の目にやきついています-一つのことばがからだの中から生み出されてから、不十分な音声と化して出てくるまで、どれほど全身が必死になって動き、ふくらみ、そして切り開くとでも言うよりほかない激しさで突出してくるか。
武満徹氏に「吃りのすすめ」という文章があります。<自分を明確に人に伝える一つの方法として、ものを言う時に吃ってみてはどうだろうか><どもりはあともどりではない。前進だ。どもりは、医学的には一種の機能障害に属そうが、ぼくの形而上学では、それは革命の歌だ。どもりは行動によって充足する。その表現は、たえず全身的になされる。少しも観念に堕すところがない。>
これはすてきな発想だと思います。私がかつてそうだったような、こえの出ない人間にとっては、侮辱ととられかねない提案ではあるけれども、私たちのことばが、いのちの証でないことが多すぎる。
われわれは歪んでおり、病んでいる。スラスラとしゃべれるものは、健康という虚像にのって踊っているにすぎますまい。からだが、日常の約束に埋もれ、ほんとうに感じてはいない。そこから脱出して、他者まで至ろう、からだを劈こう、とする努力-それがこえであり、ことばであり、表現である、とこう言いたいのです。
(中略)
たぶん、方法を支えるいちばんたいせつなことは、子どもが、この場では何をしてもいいのだ-間違ってても、ワルイことでも、自分の内に動いたことなら-と感じる信頼感だろうな、と。凍ったノドをとかしたのは根的にはそれだったのでしょう。
「ことばが劈かれるとき」竹内敏晴 ちくま文庫
ことばとからだを通して表現を考える、という事をみんなで考えてきたのですが、ことばから見た表現、やからだから見た表現、というより、そのつながりや微妙なずれ、もっと複雑に絡み合っている、そのありようから人が表現することを考えたい気がしています。竹内さんが言うように、からだや命の証が、ことば、声であり、表現だとしたら、なにかをつくること、あらわしてゆくことはやっぱり生きることそのものだともいえるかもしれない。
饒舌じゃなくていい。上手にできなくてもいい。どもったっていい。
けれど全身をふるわせ、自分が本当に心で思うことをおずおずと声にしてみること。そういうことが展開されていくといいな、と思います。
そのために、自分の内に動いたことなら、何をしてもいいと思えること、そういう信頼感のある場をつくっていくこと。