NPO ARTFULL ACTION

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みそ!

スタッフの感じたこと、日々思うことを仕込んでいく「みそ!」です。

日々の中で気づいたことを誰かと話し合う。
今日出会ったこと、感じたこと。
出来事を丁寧に受け取っていく。

もしかしたらそれ自体が発酵して、
いつかプロジェクトになってゆくかもしれないし、ならないかもしれない。
だけど、それが、アートフルアクションの「みそ」なんです。


関係するアーティスト・研究者

  • アサダワタル

関係する場所

  • シャトー2Fギャラリー&カフェ

スタッフ

  • ItoAsuka
  • MiyashitaMiho
  • 荒田 詩乃
  • きっちゃん
  • IshiiMari

2020-06-04

16:58

窓*窓プロジェクトにご関心を寄せていただいた皆様、どうもありがとうございました。
コラボレーションしていただいた深浦よしえさんのシャトーの窓絵は消えましたが、これからも、あなたの窓と誰かの窓はつながっていて、誰かのことを少しだけ思いながら飾った窓が、もしかすると誰かの心をほんのり明るくしたり、温かくしたりするかもしれません。そして、私自身の心も、ほんのり明るく温かくしてくれるかもしれません。

窓がそこにある限り、このプロジェクトは続いています。
これからも、ふとした時、絵を描いたり何かを作ったときなどに、このプロジェクトを思い出して、ときどき窓を飾ったり、窓で遊んだりしていただけると嬉しいです。

  • ItoAsuka
  • つぶやき

11:52

  • MiyashitaMiho
  • プロジェクト準備

11:47

花はどこへ行った?|4/21〜4/27佐藤李青(東京アートポイント計画)

アーツカウンシル東京の佐藤さんとは、夜に(たまにね、SNSで)昼に様々な対話を重ねてきたが、佐藤さんの日記が公開された。

この、佐藤さんの日記の公開についてお問い合わせをいただいたやりとりで、NHKのテレビで放送していた巡礼のドキュメンタリのことを話した。
テレビの視聴権をお子さん方と奪い合い(?)ながら、半分ご覧になった佐藤さんのコメント、

同じ目的をもって歩いている人たちの優しさみたいなものが印象的でした。
みんな巡礼の道を歩いていると思って生きれれば、世界は優しくなるんですかね。
もちろん、その世界は人間だけではないものとして。

花はどこへいった

戦争や争いをやめよう、そのためにできることをしよう。戦争をしないで済む世界を、大人はつくろう‥。
この映像のもっと向こうにある、一人一人の暮らしや、生まれくる子供達。そして、兵士が派遣された地に生きる見ず知らずの人たちの暮らしや大きな権力に翻弄され、委ねられる生死。沈黙している私たち。この音楽はピート・シーガーがコサック民謡にインスパイアされたものって聞いたことがある。ベトナム戦争時に、コサック民謡に触発された音楽が歌われたってことも、またいろいろと考えちゃうね。

想像力を発動させよう。彼の地で、亡くなった人たちの音楽を、映像を知るきだね。

私の犬の名前は花。呼んでも来ないけどね。この犬はアスファルトの上は歩きたがらず、某大学の畑や神奈川や山梨の山はかなり上手に楽しそうに歩く。逃走もするけれど。某大学の畑では、モンシロチョウを追いかけカエルに驚き、草に体を擦り付ける。野に生きる、生きようとする生き物は正直だな。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2020-05-21

19:49

じっくりと聴きましょう。
観ましょう、かな。

Roger Waters 77歳。

https://www.facebook.com/281553962242841/videos/692423128187279

さいごまでどうぞ。

  • MiyashitaMiho
  • ひらめき

2020-05-20

21:57

封切りの時にはみることのできなかった、坂上香『プリズンサークル』
アップリンクの仮設の映画館で。

受刑者同士の対話をベースに犯罪の原因を探り、更生を促す「TC(Therapeutic Community=回復共同体)」というプログラムを日本で唯一導入している点にある。なぜ自分は今ここにいるのか、いかにして償うのか? 彼らが向き合うのは、犯した罪だけではない。幼い頃に経験した貧困、いじめ、虐待、差別などの記憶。痛み、悲しみ、恥辱や怒りといった感情。そして、それらを表現する言葉を獲得していく…。

ってある。

TC(セラピューティック・コミュニティ)
Therapeutic Communityの略。「治療共同体」と訳されることが多いが、日本語の「治療」は、医療的かつ固定した役割(医者―患者、治療者―被治療者)の印象が強いため、映画では「回復共同体」の訳語を当てたり、そのままTCと呼んだりしている。英国の精神病院で始まり、1960年代以降、米国や欧州各地に広まった。TCでは、依存症などの問題を症状と捉え、問題を抱える当事者を治療の主体とする。コミュニティ(共同体)が相互に影響を与え合い、新たな価値観や生き方を身につけること(ハビリテーション)によって、人間的成長を促す場とアプローチ。

日本では、受刑者のうち、このプログラムに参加できるのは四十人だけだとある。プログラム体験者は再犯率が低いとのこと。

いろんな文脈で当事者、という言葉が出てくるけれど、なんなんだろうな。
全ての人が当事者だな、きっと。

継続‥。
自主事業に、なるといいな。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2020-05-18

12:20

みなさん、暑い週末でしたが、いかがお過ごしでしたか?
窓*窓プロジェクト「青空の下、あなたの窓と私の窓はつながっている」では、窓を飾ることを楽しむとともに、窓を通じて人と人との気配を感じ合い、改めて人とのつながりを感じるきっかけになるといいな、と思っています。ぜひ、お家の窓を、窓の外の誰かに思いをはせながら、絵を描いたり、工作を貼ったりして、「窓」で遊んでみませんか?
窓に作品を飾ったらハッシュタグ #窓窓プロジェクト をつけてFacebook、instagram、Twitterに投稿してください。(個人情報が特定される投稿にならないよう、お気をつけください)
シャトーの窓には、深浦よしえさんの絵が、着々と広がっております。よしえさんの絵が、みなさんのお家の窓まで拡がって、いろんな窓がつながっていくと素敵だな、と思います。
また、アートフル・アクションに作品を送っていただいて、一緒に飾るコラボレーションも、26日(火、消印有効)まで受け付けております。

  • ItoAsuka

2020-05-16

11:32

先々週くらいから、小学校の先生方といろいろなお話を始めた。
学校の様子を聞いたり、物事の決め方、決まり方(学校を巡る意思決定ね)について、話をした。

その中で、うすぼんやりと頭をよぎるのは、青山真治の『ユリイカ』だ。バスジャックに遭遇した姉弟とバスの運転手のロードムービー。

ノベライズとしては、よくかけていると思う。これも。

ユリイカ

ユリイカの子供達も今の子供達も、トラウマとか癒しというのは簡単だけれど、そんな言葉で括れない、表面的に見えない、言語化できないところで、理屈ではなく、肌で目で心で物事を捉える結果、手の届きにくい深い深い水の中にいるようだ。人は傷つくし壊れる。声高に叫ばなくても、暴れなくても、ひたひたと。文科省の皆さん、『ユリイカ』(タイトルだけで終わらないでね)は、いま、そこかしこに起こっている気がしますよ。でも、役所広司演じる沢井さんは、そこかしこに居る人ではないよね。

一方で、待っていた本が昨日届いた。
『治したくない』

20年くらい前に、
『悩む力』を、とても興味深く読んだ。

『学校は工場ではない』『むずかしい時期の子供たち』も。これは、もっと前かな。まだ買えるかな。一円だ!買っても良いよ、みんな。図書館で借りても良いけどね。

みすず書房シリーズだ(苦笑)。

「治る」、とか、the「普通」の人、とか、良い子っていうんじゃなくて、その状況の時に、その人がそのようにしか居ることのできないことに、どんな風に出会うのかな。その出会いの中で、その人から照り返される光で、見えてくる何かもあるよね。ポツポツと、一人一人が誰かを教育するとか、治すのではなくて、お互いに教室の面談や診察、みたいに真向かいにならずとも、正座して正対しなくてもね(笑)、すれ違い際にでもね、ふと光が射すと良いね。自分を照らすために他者が居るのではなくね(ここ、大事なところだ)。視線を合わせることすら難しいという話を聞いた。でも、お互いの存在が、少しでも空気を揺らすと良いかもしれないね。視線を合わせなくてもね、そこに居るだけで空気は流れるしね。長いね‥。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2020-05-02

20:23

林道郎さんのTwitterを何気なくみていて気がついた。

臨時休館中の丸木美術館を支えてください

昔、この近くの湿地の保全の仕事を10年くらい、住民の人たちと行った。
そこで出会った、小さい頃丸木さんと会ったことのある人は、シャンプーは体によくないよ、と言って頭をさすってくれた丸木さんの話をしてくれた。
決して、設備の整ったかっこいい美術館ではない。夏は暑いし冬は寒い。
でも、ここがなくなるのは大変恐ろしいこと。

この、小さな場を借りて、アナウンス。
いろいろとしなければならないことがたくさんあるけれど、どうか、この美術館のことも、忘れずにいてください。

この近くではあと一月ほどで源氏蛍が舞います。どうか!

  • MiyashitaMiho
  • ひらめき

2020-04-30

22:15

19:39
Homeを入れたいのは何故ですか?

アートフル・アクションでは、スタッフ間のコミュニケーションツールとして、Slackというアプリを使っています。
今、遠隔で、誰とも直接会わずに仕事をしています。
その中で、シャトーの窓を巡るやりとり。全文。花は、花の花と、犬の花、の両方。ご注意ください。

いとう 14:59
3 個のファイル

Haruka Moriyama 16:45
見やすいですね。花がちょっとづつ増えていったり、なんかあの窓が毎日ちょっとづつ変化してるだけでも「あ、誰かいるんだろうな」っていう謎の安心感があります。

みやした 16:48
脚立映ってる(笑)。
場所があって良かった

Haruka Moriyama 16:48
なんか募集しなくても、その日誰かが持ってきたちょっと綺麗な紙の切り抜きとか、拾った葉っぱとかそういうの貼ってくだけでもいいのかなとも思いました。三脚目立ちますね笑

みやした 16:49
時々犬がいる

Haruka Moriyama 16:49
犬もいるのか笑 外見てるのかな。

みやした 16:50
今日はいないけど。
わたしが外に写真を撮りに行ったらひっついてきちゃうかもな

16:52
誰かいるよって言う安心感は素敵だね。

16:54
明日は3連発mtgだけど、明後日、何か置こうかな。テーブルと椅子かな。

Haruka Moriyama 16:57
あ、そういうのもいいですね!コーヒーカップとかも。

みやした 16:57
人が座っていたりいなかったり。

いとう 16:58
脚立片づけます(笑)
先日アイデアを添付しましたが、「Enjoy arts @ Homeキャンペーン」っていうのはどうですか?
今SNS上で、いろいろリレーが行われていますが、この窓でも、ギャラリーが使えるようになるまで、誰か誘ったり、希望する人を募るなりして、じわじわ広がっていったらいいな、と思います。
作品は、アラビックヤマトのりで貼り付けてます。これが一番目立たず、はがれず、しかもはがしやすい、と思う。
作品は持参じゃなくて郵送で!@Homeキャンペーンなので(笑)。
もしアーティストさんが参加してくれるようなら、アートフル・アクションのHPで作家さんと作品の写真とURLを紹介できたら、作家さんの励みにもなるかな、と思ったりします。
どうでしょう?

Haruka Moriyama 16:58
私は個人的に三脚そのままでも面白い気がします笑

みやした 16:58
わたしも!
花よりいいよ
犬ね(以下、参考)

Haruka Moriyama 16:59
花もいいですよ(犬)
外から目合わせたい。

みやした 17:00
伊藤アイデア、いいと思います。郵便屋さんの負担にならないように、大きすぎるのはダメかな。あと、ビニール手袋でも買おうか。
郵便屋さん、悪者みたいに言われて気の毒です。

17:02
伊豆の姪っ子たちに手紙書いていますが、3軒しかない山の中。ウチのために山に登ってくれる郵便屋さんに日々感謝。

いとう 17:06
郵便屋さんも、彼らのほうこそいつさらされてるかわからない中みんなのために配達してくれてるのにね、本当に気の毒です。
角4(だっけ?A4が入るやつ)までで送れるもので、窓にノリで直接貼っていいものってことでどうでしょうね。
増えるたびにHPとFBにアップですね。FBにアップしたら反響あるかな。
まずは口コミかな。身近な方からいけるといいな。はるかちゃん、まずはどうですか?
あと花の足跡とかかな(笑)

みやした 17:07

いとう 17:07
脚立は出しときます(笑)そのうちなんか貼りたいね。

みやした 17:07
脚立ok!!

Haruka Moriyama 17:09
もし宮下さんの机と椅子がセットされたら、私もいつか夜中にその上に何か置きに行きたいです。もちろん消毒します。

みやした 17:36
はい!
今こそ大木さんの油絵を置こう!
油絵も、だな。

M. Ishii 17:46
そう言えば、こらぼで使うつもりだった木が置きっぱになってまして、良ければご自由にお使いください

みやした 17:47
いいね!

M. Ishii 17:47
脚立に自由を奪われた謎の生物みたいになってる…

いとう 18:03
この木、そそるよねー笑笑

みやした 18:07
つるせるかな?

いとう 18:53
Enjoy Artsでいいのかな?なんか作品鑑賞だけの意味になっちゃう?アートっていうそのものを愉しむっていう意味だったら、Artかな?

みやした 19:03
レッツ?

いとう 19:06

Haruka Moriyama 19:18
窓って言葉とか入れても良いのかなと思いました。

みやした 19:19
let’s enjoy art ダサい?

Haruka Moriyama 19:24
ハッシュタグにしたい感じですか?

みやした 19:28
ハッシュタグ有りでいいと思うよ。
fbとかで広報した場合に引っかかりやすいよね。でも、この教科書みたいなタイトルでいいかどうか?letsにはこだわらないよ。

Haruka Moriyama 19:31
ちょっと私はこのプロジェクトがenjoy artっていう言葉で表せるのか、少ししっくり来ないですが、引っかかりやすいし、分かりやすくはありますよね。タイトルだけで少しは予想できますもんね。それ大事ですね。

みやした 19:32
ああ、でもどう表現したらいいか、ぜひ聞かせてください。lets enjoyだと平時だね。

M. Ishii 19:35
ストレートに「窓に飾ろう」とか「窓を飾ろう」とかでもいいかな~って思いました。
シャトーに送ってもらうのもだけど、自分の家の窓も飾ってみようとか。

みやした 19:36
うん、うん。自分ちの窓に貼るのを促すのもいいよね。

いとう 19:38
そうなの。単純にエンジョイじゃないのよね。でもhomeは入れたいんです。

M. Ishii 19:38
貼った写真を送ってもらったり、アップしてもらったり、誰かの窓に貼ったお花に、自分地の窓に蝶々貼って止まりに来た感じで並べるとかもできるかなって

いとう 19:38
このスレッドに返信しました :
ストレートに「窓に飾ろう」とか「窓を飾ろう」とかでもいいかな~って思いました。…
そうそう、シャトーの窓は、あくまでそのきっかけ。

Haruka Moriyama 19:39
Homeを入れたいのは何故ですか?

いとう 19:39
お家ですごそうです。あとね、いま、自分にとってのHomeを見直す機会なのかな、と思って。

みやした 19:42
うーむ。家のない人、家族のいない人がリラックスできることが大事じゃね?

M. Ishii 19:42
そうですね。
でも、Homeが切なかったり、厳しかったり、辛いこともあるしね。

いとう 19:56
でも、こういう活動って「みんな集まろう」と呼びかけてる先入観がある人が多いから、「この時期になんたる不届き者:怒り:」という反応をする人が必ず出ると思うんです。

Haruka Moriyama 19:57
もうちょっと私も何故しっくりこないか考えてみますねー。
ハッシュタグで
#LoveFromHome
#StayHome
#うちで踊ろう
みたいなのがどんどん出てきてるので、うーんと最近なってて。

みやした 19:59
:怒り:は出てもいいんじゃない?
全てにokってのはありえないし、むしろ、ピンチの人はどちらかと言うとマイノリティの人の方が過酷だし。

いとう 20:02
でも、この間の mtgでも、出ることを促すことにならないように、ということだったわけで:怒り:だけならいいけど、気軽に出てくることを促すように捉えられるのはまずいですよね。
一方で、過酷な状況の人たちにとって、ほんのちょっとでも救いになれたらいいと切に思うし。

Haruka Moriyama 20:06
丁寧に伝えていけばそういう事態にはならなかったりしませんかね?
あと私はartって付いてるとこにもしっくりきてないので考えます。個人的には石井さんの「窓を飾ろう」っていうタイトルも良いなと思いました。
シャトーの窓とも取れるし、家の窓ともとれるし

みやした 20:07
うん、気軽に出てこないってことと、矛盾しないと思うよ。
今、金も仕事も家族もいない一人ぼっちの人にホームはきついだろうなって感じる。これは一般論ね。全然話は違うけど、このやりとり、みそ!にアップしたい。

いとう 20:32
みそ!にアップ、賛成です。

Haruka Moriyama 21:11
みそにのせるの良いですね!
色々ハッシュタグ見てましたが、Stay home だけじゃなくStay safeていうのだと、色々な人が当てはまって良いかもなと思いました。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

17:22

Enjoy Arts @ Home!!

今日は4月30日。明日から5月ですね。
これまで、アートフル・アクションや、はけの森カフェでワークショップをしていただいている、下中菜穂さんから、今日4月30日に行われる、「天道花」という素敵な行事を教えていただきました。

 + + ++ + ++ + ++ + ++ + ++ + + +

「旧暦カフェ」では「集う」ことの楽しさ大切さを実感してきましたが、
コロナにそれを封じられてしまったことは、まことに残念至極。
それでも、、、今までやってきたことを、それぞれの場所でやってみて
報告し合うのはどうかしらと思い立ちました。
初めて参加の方も以下を参考にしてみてください。

■旧暦カフェ 昨年の卯月八日の天道花 

【ワークショップご報告】『旧暦カフェ 卯月八日の天道花』大田区・本と工房の家

「旧暦カフェ」の自習版です。

それぞれの「旧暦カフェ」
卯月八日の天道花

来る4/30は旧暦では卯月八日です。
この日には、高い竿の先に野山の花束をくくりつけて掲げる
「天道花」の行事が行われてきました。
これは1年間の農事が始まるこの時期に、
山から神様を招来するための「めじるし」です。
今、コロナ禍による「忌籠り」のただ中にあっても、
都会のコンクリートの隙間にも、フェンスのの足元にも
春の息吹がいっぱい!
その精気を体いっぱいにいただくこと、
それがこの行事の意味なのかもしれません。
離れていてご一緒できないのは残念だけど、
それぞれの場所で、そこで手に入るもので工夫して
「天道花」をやってみませんか?

+  + + + +

・・・ということで、シャトー2Fのギャラリーの窓に、この状況で役目を果たすことのできなかった、色とりどりのフライヤーを使って、紋切りで「天道花」を作ってみました!

ぜひ、おうちの窓でも「Enjoy Arts @ Home!!」

  • ItoAsuka

2020-04-13

08:36

友達が写真を送ってくれました。
東大の技官さんが3Dプリンターで作ったマスクとのこと。
医療・看護系のネットワークを活かして今現場の友人にサンプルを送ってフィードバック待ちです、とのこと。

限界があるよね。
自分でできることってなんだろうね。

森山企画で、海外在住のアーティストと、ネットを介してディスカッションする、みたいなことも検討中。
大木裕之の小学校で撮った映像をみながら、LINEで皆でディスカッションとかね。
1 or 0 (変な顔みたい)ではなくてね。国や地方自治体だって働いているのは人間。
まずは、よく笑って免疫を高めよう、罹患した人を悪者にするのはやめよう。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2020-04-06

21:50

何年もこの街でいろんな活動をしてきました。
ここ数週間、私は、私たちは3.11の、あの時に何を学んだんだろうと考えています。
あの時、アートフル・アクションでは、当時の事務局長の佐藤さんが、帰宅困難者のためにシャトーを開こう!と決めて、水や食べものを用意し、アナウンスしました。
物理的に場をひらけた当時と違って、今回はどうやって場を開いたらいいんだろう。

石井さんと伊藤さんと、後から森山さんと、いろんな話をしました。
森山さんとは、『サラエボ 旅行案内』みたいなものを作ろうよって。

伊藤さんは、<ちょっとお手紙プロジェクト>のアイデアを取りまとめてくれました。
石井さんは、いつでもいつでも、いろんな思いつきを後押ししてくれます。

『サラエボ でゴドー‥』だな。

孫引き。

山口昌男氏は、記号学の研究者であり小説家でもあるウンベルト・エーコ氏の言葉を引用して、「文化は危機に直面する技術」であるという考え方を紹介している。

もう少ししたらアップする2019年度の活動の振り返りのPDFからお読みいただけます。

明日には、まずは、<ちょっとお手紙プロジェクト>のご案内を申し上げます。

  • MiyashitaMiho
  • ひらめき

2019-10-23

09:19

こういうライブを野や山で、シャトーの地下でやりたい。

Andy Akiho、呼んだらきてくれないかな。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2019-09-20

00:11

明日は、アートポイントの事務局のみなさんの前で事例紹介を行います。テーマはこのHPの日報のシステムについて。

子どもが眠ったあと、明日の資料をもう一度見直しているうちに、もうこんな時間です。

考えてみると、この日報もできてから2年以上経つんですね。私が産休ギリギリまで関わらせてもらったのがこのプロジェクトでした。

わたしにとって、大きなおなかで打ち合わせに向かったり、関わってくださった学生さんに生まれるのが楽しみと声をかけてもらったり、妊婦の時の思い出と日報のプロジェクトは重なっています。

どんなHPを作るか、ということより、まずは私達の団体として、何を残したいか、何を大切にしたいかを、須之内さんが繰り返し問いかけてくださったことが印象に残っています。そして外部の人がプロジェクトのどんな情報を見たいと思うか、どうまとまっていたら見やすいか、という視点で小林ゼミの3名の皆さんが毎回会議に出て、すごく誠実に意見を出してくれました。

そんな話し合いの中で宮下さんから「日々がポリシー」という言葉が出て、私はとても素敵だなと思ったのでした。

本番だけじゃないんですよね。誰かと出会ったり、何かを考えたり、そういう日々の営みが、プロジェクトへつながっていく。

  • 荒田 詩乃
  • つぶやき

2019-09-04

12:21

東京デスロックのanti human educationへ。横浜のstスポットです。

教室のようなセットで演者は教壇に立ち、私が受けてきた教育について話します。と、観客に語りかける。

子育て、教育、なんて言うけれど、不完全な存在であるひとがひとになにかを教えることなんて本当にできるのか。正しい教育も間違った教育もほんとうはよくわからない。2歳の人といるとですね、こちらが教わることのほうがはるかに多く、、。

どんなに相互的に場をつくっても、演劇も教育も、何かをなす人がいて、それを受け止める人がいる、という関係性からなかなか自由になるのは難しいのだなとも思ったりしました。そういう学びの関係を少しゆるがせる事ができたら面白いですよね。

知識を教える「銀行型」の学びではなく、ともに問題提起をして語り合う「問題提起型」の主体的な学びでしか社会構造に変革をもたらす人を教育することはできないといった「被抑圧者の教育学」を書いたパウロフレイレは、本当の主体的な学びは抑圧者ではなく被抑圧者の側からしかつくることはできないと言っていた。

出会うことのできない人がいる。いるのにいないことになっている人もたくさんいる。たぶん、なにより私自身のために、もっといろんな人にわたしは会わなければいけないのだと思う。

  • 荒田 詩乃
  • つぶやき

2019-08-27

20:16

プロジェクトではないけれど、私の中で分かちがたく結びついている話。

私には2才のこどもがいます。そして今日はこどもが熱を出しています。けれど、仕事だからごめんと夫にお願いをして、仕事へ。良きプロジェクトにしようとがんばればがんばるほど、よき母ではなくなっていく。家事や家族との時間や様々なことが回らなくなってしまうのです。

なんだかどっちも中途半端だな、家族も仕事も、もっとやりたいのに、できないな、結局中途半端だな、みんなに迷惑をかけてダメダメだな、なんて思いながら、今日も働いています。

それは私のキャパシティが小さいということなのかもしれません。やれる人はやれるのかもしれない。だけれど、その二つのバランスを上手にとりながらやっていくことは私にとっては実は結構至難の業でもあります。

プロジェクトの中で考えます。くらしのことや表現のこと、善く生きること、そしてそれをひらいていくこと。だけど、私の実生活は余裕なし、ぼろぼろ、でもあるのです。ごめんなさい、矛盾です、なんて時々思ってしまう部分もあります。

だけど、本当は、そういう事もプロジェクトの本質に無関係ではないんじゃないかな、と思ったりします。

  • 荒田 詩乃

2019-08-26

06:28

アーツカウンシル東京の佐藤さんとの対話から、テッサ・モーリス=スズキさんの『世界を再想像する』(福岡市立美術館)を見る、読む。

キュレーターの正路さんが、展示に際してこのテキストがテッサさんから送られてきて、図録に収録できたことが大きな喜びである、と書くのもとてもよくわかる。そして、もしかしたら、今、さらに、私たちの立つこの場所を照らしてくれる一文なのだろうとも思う。

このテキストが終わってしまった展示の図録にひっそりと立ち続けていることを、少し掘り起こして行けると良いのだろうと思う。ブレイクのくだりを少しだけ。

ーー
(略)

今日の世界政治に明らかにかけているのは想像の能力であろう。現在にいたるまでの道程のどこかで私たちは夢を失ってしまった。グローバル化された世界は巨大な商品経済のシステムによって規定されるようになり、政治と文化はそれにほとんど抵抗を示さない。グローバル資本主義のパワーが政治的想像力を抹殺したのである。それは1980年のイギリスの首相サッチャーが掲げたスローガンによって要約される。
「他に道はない(there is no alternative)」

他の国と同様に現在の日本の政治世界では、オルタナティブは忌避され、創造性を持つ想像力は圧殺される。政治的言説では偏狭な意味だけを有した「国益」という言葉が濫用され、結果として外側世界との摩擦は深まる。

政治は、まるで「恐怖」によって動かされているようだ。「他者への恐怖」「未知なるものへの恐怖」、それだけではなく「自分自身に対した恐怖」。
世界の国々と同じく、日本は新しい夢とヴィジョンを必要としている。
それはどこで見つかるのか?
それは、政治の境界を超えたところ、いや、「政治の境界」自体を描きなおして再想像したところを探さなくてならないのではなかろうか、と私は考える。

(略)

美術には、より良い生のヴィジョンを求める特別な位置がある、と私は考える。それは、視覚と神経と脳を物理的に結びつけるだけでなく、想像の力を刺激し想起させることにより、私たちを囲む世界を明示してくれる。想像力がなければ、現前にあるもののほとんどは見えていない。

「ある人を感動せしめて喜びの涙に至らしめる木も別の人には道路に立ちはだかっている一個の緑色のものに過ぎないのです。ある人は自然を全て笑い草であり畸形であると見ます。(中略)また、ある人は自然を全く見ないのです。しかし想像の人の目には、自然は想像自体なのです。」と詩人ウイリアム・ブレイクは書いた。

美術は、自然とヒューマニティーを可視化して、不可能なものをリアルに転化して。まさしくその理由によって私たちの夢を不可視なものにしようとする社会的政治的障壁を取り壊していく。

(略)

ーー

2014年に(それはつまり、9.11も、3.11も経験したのちではあるのだけれど)、テッサさんは「政治は、まるで「恐怖」によって動かされているようだ。「他者への恐怖」「未知なるものへの恐怖」、それだけではなく「自分自身に対した恐怖」」、と書く。

不安と喪失と茫漠とした無力感に向き合うためには、織物を織るように手を動かし、糸や布、さらに、「何か」を折り重ね、心を空にし、そして、違うもので満たす、に似た、そしてそれぞれの人に寄り添う営みが必要なのかもしれないと思う。

継続‥。

図書館で見てね。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2019-07-24

08:36

昨日は一橋大学の学生さんと全生園に。
学芸員の木村さんを囲んで。

裁判史観という言葉が飛び交う。
表に出てこない私史のようなものに丁寧に出会っていきたい。顔が見えるようにね。


研究紀要 抜刷 優生保護法下で生まれたハンセン病患者の子どもたち

春先、奄美の和光園で教えていただいた資料。

それから、ある日のラインのやりとり。私(miho)が、植物のご専門の方(Iさん)に写真を示して質問中。

12:12 Miho Iさん、お時間おありの際に。ムラサキシキブ?ウツギ? 誰も花をみたことがありません‥。お教えいただけると幸いです。

13:29 I ムラサキシキブでございます
13:36 Miho だよね、でも、一度も花咲かないんだよねえ。ありがとうございます。
13:38 I 陽当たりが悪いとだらだら葉っぱだけつけいることが多いと思われます
13:39 Miho ありがとうございます。こういう、植物の「総称」、ではなく、一株毎の個性や状況に思いをはせたいものでございます。 ムラサキシキブなんて、強い植物、って思いがちだけど、ひっそりと苦労(笑)している子もいるんだよね。

わかりにくいと思いますが、植物を名前で表現してしまうと、わかったつもりになってしまいます。そこで思考停止。でも、一株毎眺めていくと、個体差がたくさんある。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2019-07-22

13:28

ある日の本

苛烈な記録であると同時に、愛の本でもある、かもしれない。読み方によってはね。

特にこの数年間、福祉施設の方々と仕事をする機会にも、小学校に出かける際にもいつもとても気になった。
私たちは授ける人ではない、かといって遊び相手でもない。こっちは良いからこっちにおいで、素敵な世界があるよ、といって子供を引っ張ることも、福祉施設で、彼らはとても素晴らしい存在で、私たちこそが学ばせてもらっている、というのも、所詮はこちらの立場を棚上げした自己満足。出かけていく場は、私たちの自己表現の場ではない。どれだけ私自身が問われたのか、問うことができたのか?ずっと気になっている。ずっと、自省。

ヴィータ ――遺棄された者たちの生

著者は医療人類学の大家で宗教学の学位もある人で、もちろん調査のフィールドとして、ブラジル南部の保護施設「ヴィータ」――そこは行き場をなくした薬物依存症患者・精神病患者・高齢者が死を待つだけの場所だった。(アマゾンの紹介文ね)ーに赴く。

ブラジルの現代社会の諸問題?!、医療が人をどう扱うかという問題、も、もちろん重大な課題。けれど、私は調査対象と調査する人がどんな風に出会うのだろう、そこに存在する相互の尊厳ってなんだろう?と思う。

苛烈な人生を生きてきた一人の女性の聞き取りを始めるわけだけれど、the対象、でも、過度の感情移入でも、社会の不平等を学術的に解き明かすだけでもなく、人が人とどのように出会うことができるのか、と、その可能性、理解の可能性を拡張する試みでもあると思う。人間としての共感も、出来事を理解することができる分析能力も必要だ。そして、きっと、なによりも人間に対する深い関心と共感と相手に対する尊厳なんだろうな、抑制された筆致から。もちろん、研究者だからね。

そして、翻って。我がこと。
つまり、良いことやっているからいいでしょ、ではなくて、素人の良さもあって良いのだけれど、やはり、私たちも人とはなにか?ってことを、深く深く学び続けなければ、それぞれの現場においそれと入って行っちゃいけないのかな、と思う。

専門書かもしれないし、厚いけれど(だから(笑)?)、精読の書。

こちらも。

他者の苦しみへの責任――ソーシャル・サファリングを知る

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2019-04-02

11:51

4月になりました。新年度です。
今年の抱負は、出勤した日には毎日ひろばを書く事です。
今年はどんなできごとが起こるんでしょうね。ワクワクです。

今日は、昨年度の報告書と、色々書類整理や片付け等をしています。
どうやらアートフルは秋ごろからぐわんと忙しくなるので、
今の時期に、後回しになりがちな片づけをしたいなあと、思います。
春はいいですね。少しフワフワしています。

  • 荒田 詩乃
  • つぶやき

2018-10-06

08:44

小学校のプロジェクトが始まります。
今年は4つの小学校と連携します。

今までになかった、詩や身体表現、映像、地域との関わりなどをマテリアル?技法?コンセプトに考えています。   

ティム・インゴルド『メイキング』のはじめのところ、
副題の4つのA すなわち、人類学、考古学、芸術、建築について、それは作ることを通じて思考する方法である。少なくともそうありうる。このことは思考を通して作ることとは全く異なる。

『他者の苦しみへの責任』の、V・ダス、「言語と身体ー痛みの表象におけるそれぞれの働き」には、
ある種の現実はフィクション化することによって初めて理解できる‥。

上記に引用される『哲学の<声>』スタンリー・カヴェルは、優れた音楽家であった母親について、
‥‥母が持つ読譜能力についての私の描像、つまり自分の前におかれたいかなる楽譜にも生の息吹を吹き込むことのできる母の能力のことである。私の考えでは、それは演奏上の特技というようなものとは違う何か別種のものである。それは、(彼女自身の意思をも含め)あらゆる干渉を寄せ付けることなく、楽譜に盛り込まれた精神によって身体を動かされるに任せる能力である。

つくる、ということ、人にとって作るとは何か?
節目節目に考える。そして、いろんなことをやってみる、いろんな人と出会う、また、考える。その結果、出てくる新しい働きかけは、プログラムやフレームワークは同じでも、自ずと違うものになる。

もう少ししたら、一つ一つのプログラムについて、詳述していけると思います。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2018-09-26

10:18

『15少年漂流記』を覚えていますか?

私は小学5年性の時に夏休みに感想文を書きました。
それ以来、『2年間の休暇』を含めて何冊かの異なる翻訳本を手元に置いています。
ちなみにヒルダ・ルイスの『飛ぶ船』も、大好きです。小学2年性の時に自分で初めて一人で本屋さんに行って選んだ。田舎道。

ここのところ、よくこれらの物語は何だったんだろうと考えます。ベルヌはなぜこれを書いたんだろう?
(私はベルヌのような人、ヒルダ・ルイスのような人に会ってみたいとねがっています。ついでに、デラメア(この人のことについてはまた書きたい)にも。 「盗まれた飛行船」は、今はなき吉祥寺のバウスシアターで見たっけ。迷作?名作?)

15少年は、こども「たち」の冒険譚で、精神科医のサリヴァンが(うる覚えだけれど)前期思春期の少年たちのギャング時代がその後の精神の成熟にとても大切、と言っていることも重なります。大人の庇護や目線のない否応無しの場面で、やっと、人間の素の顔が見えたり、潜在する可能性が発現したり、創発される。その背景や前景にはその子供だけの大きな物語があるはず。サリヴァンは、大人になった時にギャング時代が大切、と言ったとして(うる覚え)それにしても、子供は大人になるために生きているとも思っていなかったはず。子供はその瞬間瞬間に、全体として一つの人格であると、私は思う。もちろん、一人じゃ生きられないけどね。

でも、数年、小学校の授業に関わって見えてくるのは、私自身のもつ 「こどもらしさ」 に対する勝手な幻想や思い違いと同時に、埋没するその子自身の個性。愛されることと相手におもねることが背中合わせ、つまり、こうしていたら愛されるはず=愛されないことの怖さ、なのかな、と思ったり。愛されたくて暴れている子供はまだわかる。そもそも、愛されること、などから遠く離れてどこか遠くの世界にいるのかな?と思える場面などなど。

大人と子供の距離がなんだかよくわからない。子供は大人の顔色を見ることをよく知っている。この人は気に入っているのかいないのか。そして、無自覚にも、私自身がそのことに寄りかかっていたな。おもねていたな。

そこで、今年の小学校のプロジェクトは、これまでのやり方を180度転換。このことに無責任に関わっちゃいけない。
副題は全て、15少年漂流記。

子供の、あるかないかの願いを大人の力で形にするのではなく、結実しなくてもいい、とにかく、自力でやってみることを肯定する。答えはない。
これまで限られた時間に何かしらの「かたち」にすることに大人は奔走してしまった。もちろん、もちろん、これは悪意ではない。普段の授業ではできないことはできたし、そこでの大人と子供の、家庭や学校にはない関係はとても大切ともいえる。でも、これって、大人の満足? これは、ここまでいろんなプログラムを作ってきた私自身の大きな反省。

そして、最も大きな契機は、複数の小学校の先生から、今年、改めて聞いた。大人の指示を待ち、顔色を見る子供たちのこと。

言われた通りにやったから良いでもなく、手伝ってくれてありがとう、でもない。もっともっと、小手先ではない何かを探してみたい。
学校でのプロジェクトは、かかわる大人自身が自分の欺瞞を問い返す機会となることも多い。でも、この場は大人の学校でも大人の自己表現の場でもない。

そんなことを、これかで参加してくださった皆さんとも語りたい。
本当の意味の、尊厳って、なんだろう? この社会で、子供の尊厳、人間の尊厳が大切にされるってどういうことだろう? って。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2018-08-28

04:21

時々、佐藤真の『out of place』を思い出す。
彼が亡くなった年齢を超えて久しく。
そろそろ、また命日で。

とりあえず、DVDを、小さなモニターでみてみることにする。
劇場でもみているし、サイードの『遠い場所の記憶』は、斜め読みを10回くらい繰り返しているから、全部読んでいるかもしれない(笑)。

ドキュメンタリーってなんだろうね。
いろんな人がドキュメンタリーの作品を作っている。いろんな考え方があるだろうしね。撮ることを巡って。
一般的に、撮る者、撮られる者の構図がはっきりしやすいのかな? 対象がはっきりしているからね、主題もね。

でも、なんとなく、『out of place』は、製作時にサイードは死んじゃっていて、その軌跡をおいつつも、『遠い場所の記憶』を説明しているわけでもないし、旅行記でもない。市場のアラブ人がいかに暮らしが厳しいかを語る、サイードの墓を尋ねる、コロンビア大学の同僚のコメントが出てくる、サイードの子供時代の映像と今を生きる彼の子供たちのコメント。その散りばめられたいくつものピースが、どこかの段階で何かを形作ってまた消えていくって感じもする。

サイードの発言集成 『権力、政治、文化』の第8章、「文化と帝国主義」の中に、変奏曲の構造が「文化と帝国主義」を書くときにこの上なく有用である、という記述がある。<自分の本を厳密な学問形式をモデルにするのではなく、音楽という芸術をモデルにして組織しようとしたのですーー変奏の積み重ねというアイデアが、この本の、実際の構成方法であると思っています。相互に依存する複数の歴史、重なり合う特徴といった考え方が、そして、この種のことすべてが、この本の構成要素としてとても重要な役割を果たしているのです。> って。ふむふむ。

なるほどね。だから、佐藤真の「out of place」が好きなのかな。おもしろいな。

  • MiyashitaMiho

2018-08-12

23:38

8月18日に外で話をします。
そのために、少し、アートフルアクションでやって来たことって、一体どういうことだったのかなというのを相対化する試みを。
手始めに『ソーシャリーエンゲージドアートの系譜・理論・実践』を。

自分以外の人に考えていること、行なっていることを丁寧に誤解なく伝えようと思ったら、物事の定義や範囲、範疇を明確にすることは大事だよね。

クレア・ビショップを引いて「参加者を挑発しようとする伝統的な作者性と集団的創造性を受容し、作者性を排除する系譜」を分類する、とある。「作者性を排除する系譜」は、確かに私たちがアーティストを特別視しないで目指して来たことと少し重なるところがあるのかもしれない。でも、それを厳密に分けて説明することがどれだけ大事なのかな、可能なのかな。最初に意図したことはそうだったかもしれないけれど、関わった人の体験として、それはどういうものとして作用するんだろう?

なんとなく、あくまでもなんとなく(あえて)、だけれど、何をしようとしているのかが描かれずに、その二つの別の重要性を説かれても少し違和感があるな。何を試みようとしたのかな(目標の成否じゃないけど)、そこのところがわからないと、その両者を厳密に選別しようとしても、なんだか「なぜ」?って感じが拭えない。もうちょっと考えてみよう。それから、私もすぐにそういう風に言葉を使ってしまうけれど、ここで「社会」とか「参加」が、あまりにも当たり前のように語られちゃうことも、社会って何よ?とりあえず、みたいな気持ちになってしまうね。

難しいなあ。これも、また、継続審議。

  • MiyashitaMiho

2018-08-11

00:27

かなりしぶとくこだわる。

今日、

ゴードン・マッタ=クラーク(展)を巡って──介入と転位と生成/の/都市空間

に行って来ました。

ゴードン・マッタ=クラーク展、展示方法はかなりの???だったけれど、街に介入するってこと、民主主義ってなによ?ってことだったり、彼のやっていたfoodってスペースが面白かったりで、展示は、展示方法の???を除けば、みるべき。

で、本日。なんと、このトークに岡崎乾二郎乱入。
ラッキー。一つの物事は一つの出来事からだけ出来上がっているわけではない。当然。時代や社会の動きや人間という生き物の特性やら、総合的に出来上がっていて、その複雑さを読み解くことは大変面白い。

岡崎さんの、ユングや錬金術と時代の関係やら、ライヒのこと、などなど、建築家の特性や建築表現と時代の関係、鈴木了二を凌駕する???。

なんといっても、面白いのは実感に基づいた持論を、きちんと参照点をおさえつつ展開すること。激烈に、博覧強記。
借り物でない身体化された知を、ほとんど縦横に展開する。刺激的だったな。しかも、岡崎さん、本日の登壇者じゃない(笑)。

目が覚めたな、後半のトーク。エキサイティング。

トークを企画するときには、このくらい刺激的(っていっても、岡崎さんは登壇者じゃないけどね)にやれるといいな。

  • MiyashitaMiho

2018-08-10

08:27

つづき。

ブラック・マウンテン・カレッジのことを調べてたんだけどね。
秋から始まる講座、どうしたら双方向に学び合うこととか気づきが生まれるのかな?って。

ジョン・ケージ著作選 (ちくま学芸文庫)

を眺めていたところ、ふと、この人はどうやって生きてきたんだろう?って思う。

『ジョン・ケージ伝』

面白いな。
カニングハムの楽団のバスの運転手をしてみたり。

まずは、運転手かな。意味不。

  • MiyashitaMiho

07:52

いろんなことを試してきました。出来事をどうやって記述するかということも、何度か考えました。

今日、たまたま。

『武満徹の電子音楽』

広辞苑か?
しかも、面白いのが目次。

本文は、

柄と箱

常々、仕事に愛がないとダメだって思っているけれど、すごいな。この著者は電子音楽が好きなんだな。

  • MiyashitaMiho

2018-08-07

17:57

本年度下半期、

東京プロジェクトスタディというものに参加します。

今、この街、東京、日本に暮らすってなんだろう?
水に沈んだ村から、あるいは東北から、ベルリンから考えてみる。

そして、私たちの身体は、この街に暮らすことの不具合や危なさ、を、どんな風に感知し、そしてそれを超えていくことのできる身体を持つことができるんだろうか?

なーんて考えながら、黒田喜夫『燃えるキリン』を読む。中に、東北の民謡を巡って。「民謡を探るー伝統への挑戦」は、迫力の論考。

もっともっと考えねば、そして、歩いて、多くに出会ってみなければ、と思う台風前夜。

  • MiyashitaMiho

09:17

チーム内部のコミュニケーションのために、slackを実験的に導入してみることにしました。
この際に、wordpressの事とか、もう少し詳しくなりたいなーと思いながら色々いじっています。

みんなにとって使いやすいツールになるといいな。

  • 荒田 詩乃
  • つぶやき

2018-07-28

23:43

自分を脅かさない問いなんてない。(問う事は問われることだという事)

何気なく読んでいた本の一文が残りました。

私がアートフルアクションにいる理由のひとつは、
私にとって、ここが問われ続ける場所だからだと思います。
問い続けることは、問われ続けることなのだ。

ほんとうに大切なことはなんだろうか?

  • 荒田 詩乃
  • つぶやき

2018-07-19

08:03

日本にいると、一般的に、「文化」は、良いもの。
文化的な生活、文化祭とかね。
音楽や絵画‥‥なんて思っている。

「トラウマと医療人類学」(宮地尚子 みすず書房)

あらゆる人はあらゆる歴史的、地理的、社会的背景を持っていて、それぞれに価値観や世界観を形成している。
それは民族や地域、あるいは国家の中で時間をかけて複雑に、多様に、織り成され人々の身体や精神を形成している。
そして、それは国家や民族から個人のレベルに及ぶ多様性となって存在してる。

とおもう。

文化政策や文化資源を考えるときに、指定管理もホールも大事だけれど、この、侵し難い異なる人たちの価値観、世界観をどのように考えたらいいのだろう?って考えることも、なんだかとても大切な気がする。

小さな小さな現場に出かけるときにでも、徹底的に異なる他者の持つものを、心底に知ることをのぞみ、尊び、そして共に何かをなすとはどのようなことであるのか?考えたほうがいいね。すでにある価値(自分は正しい)って思わないことが大事だ。

良書。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2018-07-18

21:46

NHKの「被曝の森2018」を、2度見ました。
2度とも感じたのは、地震とは違う感じの止まらない振動。
慄きなのか、慟哭なのか。
画面は揺れていないし、=地震、ということでもない。
でも、なにか収まりのつかない振動を感じる。

そんな話をしたら、ひとりは、モーリス・ブランショの「災禍のエクリチュール」を紹介してくれた。

そして、今日、また、これに類する話を今度は別のアーティストとした。
そこで出てきたのは、 「誰でもないところからの眺め」(いがらしみきお)。
ぼのぼのでしょ、って思っていたら、ちがうわ。

ガキデカと「ひかる風」のことも考えた。

いろんな人がいろんなところで収まりのつかない振動を感じているのかもしれない。
その収まりのつかなさを、振動として可視化したのかな?とも思う、ヤコブ・キルケゴールを思い出した。

揺れとはなんだろう?

以下、継続シンギ。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2018-07-02

18:55

アップリンク

「ガザの美容室」

先週は衛星放送で「もう一人の息子」を見た。

オマールの壁」も秀作。

「アメリカ」とか「イスラエル」とか「パレスチナ」なんて、あたかも何かを知っているかのように、大文字では、何も言えないな。

誰かが真摯に何かを伝えたいと思っていることがあるとしたら、静かに向き合うのかな。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2018-06-27

23:39

近隣の大学の授業で、修士の学生さんたちの発表。アイ・ウェイウェイ、ケーテ・コルヴィッツ、ヘンリー・ダーガーなどなどに関して、なぜその人を取り上げたのか、どのような点が興味ふかいのか、などなど。それぞれの方の発表の後、小さなディスカッションを。

自分以外の人の発言から触発され、次の疑問やアイデアが浮かんでくる瞬間があって、知ること、考えること、新たな問題意識や観点が生み出されるダイナミズムがおもしろい。こういう場を、大学だけではなくて、もっと開かれた所で、フラットに展開し続けていけるといいな、と。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2018-06-25

16:44

6/25に、子ども未来研究所のお話を伺いに、学芸大学に行ってきました。
子ども未来研究所は、東京学芸大学の「知」である子どもに関わ
「ひと」「こと」「コミュニケーション」を社会に発信するNPO法人です。大学の枠を飛び越えて、まちの中でワクワクするような面白いことができないかと、様々な取り組みをされています。
今の子供たちが置かれている現状をアカデミックに捉えるという、学芸大学ならではの強みを活かし、地域の子供に関わる活動をしている人たちへのサポートや、子供に関わるさまざまな可能性を、企業との連携・共同研究を通して模索されていることなどを、盛りだくさんにお話していただきました。

お話いただいたことが沢山あってうまくまとめられませんが、さまざまな立場の人と関わりながらまちを見ることで、自分たちだけでは見えないものが見えること、連携の大切さを改めて実感しました。

  • ItoAsuka

2018-06-21

21:31

これまた数十年前、佐賀町エキジビットスペースという、小池一子さんがやっておられた良いギャラリーが東京駅の向こうにありました。
古い倉庫を使って、作家もいつも面白かったな。そんなことを思い浮かべつつ、天王洲アイルの「archi + anarchy II II II」。

出展者の一人の大木さんと、ごそごそとメッセンジャーでおしゃべり。

あの、
この、
寺田アートコンプレックスが、
現代の祈りの場
に、
ナルノカ

って、大木さん。

佐賀町から天王洲、

佐賀町エキジビット・スペースとは

https://urano.tokyo/

この35年で、一体全体何が、どう変わったんだろう?

この、大木さんの映像も、1983から?げっ

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

21:21

私ごとですが、30年近く前、武蔵野美術大学で、「武蔵野美術」という雑誌を作る仕事をしていました。
高見堅志郎先生が編集長で、なんとなく、とにかく楽しく。良い雑誌でした。後年、色々な方がそう言ってくださいます(手前味噌)。

ふらっと立ち寄った三鷹の、澄んだ目をした店主さんの古本屋さん「水中書店」で、バックナンバーを発見。
こんなところにこんなものが! 30年前の雑誌だ。何であれ、本は残るんだよなー、と思った次第。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2018-06-20

15:49

小金井アートフル・アクション!は、今年10年目。9年間の活動の取りまとめを行なっています。
もう少しでできます。
9年間の活動のそれぞれを、何を考え、何を試して見たのか、部分的に詳述、部分的にあっさりと、そこに人がいることがわかるように書いています(つもり)。

振り返りのために、9年前に活動してくれたたくさんの人と会いました。懐かしがってくれたり、良い時間だと言ってくれたり、嬉しい時間でもありました。
出来上がったら見に来てくださいね。

  • MiyashitaMiho

2018-04-14

05:16

4月13日、事務所にてアートフル・アクションのキックオフミーティングを行いました。

久しぶりにスタッフ全員が揃い、2018年度の活動について共有しました。

アートフル・アクションは今年で10年目。2018年度もどうぞよろしくお願いいたします。

  • きっちゃん
  • シャトー2Fギャラリー&カフェ
  • つぶやき

2018-04-07

08:47

年度末にかけて、本当は記しておかなければいけないたくさんのことがあるのだけでど、忙しく、気ぜわしく、できなかった‥。
一息ついて、でも、書かなきゃいけないいろいろを見回して。

ジャン・ウリの『コレクティフ』が刊行されました。
ガタリの『精神病院と社会のはざまで』とか、『ソローニュの森』、『すべての些細な事柄 [DVD]』を眺めて。

精神病院の医師であった人がセミナーで話したことを本にしたものだけれど、当然のことながら、広く社会の出来事。
人々が集団を形作りながら、個々の特異性を発揮するための「ちょっとしたこと」とはなにか?
あるいは、「何ものでもないことを撮りたい」という利用者。患者とそうでない人とのヒエラルキーの問題。
つまるところ、人とは何か?

そう、患者ではなく、その場を利用している利用者ということも、ちょっと考えられるね。
看護師だって利用者だ。「かがわ工房展」を巡る議論で、当事者っていう言葉についても考えたよね。

先日来、一遍上人の図絵に描かれる癩者についても。社会は病むこと、弱いことを、どのようなものとして扱うのか。
その眼差しにはその社会の性質が見て取れるよね、きっと。

ふむふむ。もうちょっと考えてみよう。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2018-03-18

22:21

年度内の活動が、活動の取りまとめにシフトしています。
このような活動の社会的な意味について、そして、そこにある一人一人、について考えています。

予約していた図書到着。

https://www.msz.co.jp/book/detail/08670.html

表現や思索が純化し、昇華し、普遍化する動きと同じだけ、多様なもの、ことを尊ぶという、一見すると矛盾だけれど、そこに可能性を感じなつつ、最後の一章の「不純なものへの賛歌」をパラパラと。

この章の扉に、ナンシーの、 「我々」とは、「私」の加算でも並列でもない(『単数で複数であること』)という警句の引用あり。

以前引いた、李青さんの、

あたりまえの「みんな」を前提にするのではなく、「わたしたち」から「みんな」を再構築して行く

と、お腹合わせ(笑)?背中合わせ?で考えて行くべき。

著者のカロリン・エムケは、貴重なロールモデルかもしれない。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2018-02-18

17:45

去年、車屋美術館の 『試論:栄光と終末、もしくはその週末 / Week End』 に。 

人の心性と風景の関係について。この展示は、東京を出て美術館に向かうその道程そのものも展示だったんだなと思う。
道すがら目にする、高速道路の工事やロードサイドのフランチャイズのお店、耕地整備されたコンクリートの水路の田んぼ。
どのような意志、意図、政策や施策がこのような風景をつくるのか、そこでどのような心のありようが生まれるのか。地政学。

なんたって、amazonで古書であるけど手が出ない、大昔、一冊コピーした今や紙爆弾 『ゲニウス・ロキ』(クリスチャン・ノルベリング=シュルツ)。

ゲニウス(守護霊)・ロキ(場所の)というラテン語があらわしているように、それぞれの場所にひそむ“地霊”の力のようなもの、が存在するとしたら、ここにはどんな地霊が棲むのか?

写真美術館の今年度の恵比寿映像祭に、ずっと気になっていた清野賀子さんの写真が出展されていた。
今年のタイトルはインビジブル‥。
清野さんの写真はあらゆるものが稠密、そして晒されるように露呈されるように見えるけれど、なにかが、透過する。これは何だろう?
今この年の恵比寿映像祭に、彼女の写真が選ばれているということ。

宙づりにされ、長いい時間をかけて培われてきた地霊が変質して久しい今、いろんなところでそのことを端的に、婉曲に、無意識に描き出す表現が、いろんなところで見られるようになった気がする。これは、その変質がすっかりと私たちの身にしみてしまったということなんだろうか?

  • MiyashitaMiho
  • ひらめき

2018-01-31

15:41

 

伊丹十三の本。ずっと読んでみたいと思っていてやっと巡り合えた本。(絶版だなんて!

映画監督の伊丹十三がフランス料理を教わりながら作り(作り方もオールカラーで詳細に)

それを食べながらゲストと語り合う本です。とても面白い。

 

「小金井と私」とかで人にインタビューをするときに、申し訳ないなって、話を聞かせてもらってこちらが差し出せるものは何もないなって思っていました。なんか、人に話を聞くときの態度としてこれでいいのかって、どこかでうしろめたさみたいなものを感じながら話を聞いていたのだけれど。この本に出会って、ああなるほど、と思ったのです。

 

人に話を聞くときの空間のつくり方とか、すごく面白い。そこから出てきた話もとても良い。

語る内容と、環境というのは、本当は分かちがたく結びついているんでしょうね。誰が語るか、誰が聞くか、という事もそうだけれど、どこで語るか、どんな環境で、どんなタイミングでという事も、語る内容にとても関わっているのだと思います。

こういうことをやりたいな。たくさんの人ではなく、誰にどう出会うか、その出会い方を丁寧に考えていきたいな。そんなつぶやきでした。

  • 荒田 詩乃
  • つぶやき

15:20

ひさびさのみそ。
大学時代の友人に写真を撮ってもらいました。
彼女は、最近祖父が亡くなって、その祖父の使っていた古いオリンパスのカメラに出会って、写真を撮るようになったのだそう。
祖父が見ていた世界を見てみたかったって、彼女が言っていました。
きっと、撮ることは、彼女にとって、
祖父と語り合うことだったし、世界に触れることだったんだろうなと。
そんな彼女の撮る写真は、体温が伝わってくる彼女らしいあったかい写真なのでした。
このカメラは私達よりずっと年上ですよね、なんて笑いながら。
その人自身の世界への向き合い方を表現というのだなあと、思います。
そうすると、きっと人は日々さまざまなことをさまざまな手段で表現していて、
世界はすでに彩りゆたかな表現に満ちあふれていて、それにどう耳を澄ますことができるか、そんなことを問われているような気がしたりしています。
他の誰かにとって、何かを感じることのできる表現とか、価値とか評価はあれど、
その人がどう自分や世界に向き合ったかという意味において、良い表現、悪い表現なんていうものは本当はないのだなあと。
私にとっての問題はきっとそれを受け止める心のゆとりを日々持てるように過ごせるかどうかで、それが今年のひそかな目標だったりします。
ゆるゆるやっていきます〜
  • 荒田 詩乃

2018-01-26

08:36

またまた、大木裕之さん登場。
バージニア・ウルフの「自分一人の部屋」をめぐって。
女性が一人で創作をするということについて。大木さん、相変わらずの早口で、脳内に想起することと話すことの時間差大。追いつけない。

私が敬愛するメイ・サートンのなかに描かれるウルフは、サートンにとってメンターであり、少し先をゆくライバル?であり、姉妹でもある。
サートンがウルフとのイギリスの時間を慈しみ懐かしむ描写が、どこかにあったな。
ウルフはサートンのことをどう思っていたのかわからないけれど、創造するという営為のもとでの敬愛とかお互いの存在に感応する何かがあったとしたら、それは本当に羨ましい。

サートンのウイキが見つけられないから、川本三郎の書評があるから読んでね。
https://mainichi.jp/articles/20160925/ddm/015/070/013000c

ずっと引っかかっているワークショップのこと。大人と子供、だけでなく、大人同士でも、お互いに心を開いて学び合うことができるはず。
そこにはたぶん、相手を尊ぶ心が満ちていたのかな。潜在的に。そしたら、子供と相対するときだって、同じだよね。大人だって、心を開いて向き合うことが大事だね。間違いなく、彼らは全能な、私の師。

このあと大木さん、学芸大の学食に、この、ウルフの本を忘れたそうで、急ぎ取りに行く、の巻。西村くんは、内緒だけど、なぜそんなに大事なものをなくすのか、時々わからないって。大木さん、読んでないよね、これ。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2018-01-24

22:47

アーツ千代田で打ち合わせの予定で出かける。
13:00だと思って走って行ったら13:30だった。待ち合わせ相手は、その後の研究会が2:00からだと思ったら3:00からだった‥。

そこで(?)打ち合わせの後、研究会にお邪魔した。
公開研究会「アートとコミュニティを巡って(1):イギリスの経験から」 地域とアートに触れる文化事業に、どのような方法が有効だろうか――。

公開研究会「アートとコミュニティを巡って(1):イギリスの経験から」

イギリスのコミュニティアートと言われるものが、どんな政策的な枠組みを背景として展開したのかはおもしろい話だった。
(コミュニティアートは、政策的な枠組みがなくてもありえると思うけどね)

多分、政権の推移や移民の増加などいろんなことがもっともっとたくさんあるだろう。
社会課題を解決するため(だけ)のアートなんてあり得ないと思うのだが、人の営みとしての創造、表現と考えると、当然、それは政治的。

モデレーターからは、突如、小金井の事例が(笑)。
びっくりしたな。
もっと勉強しなくっちゃ。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2018-01-20

21:51

「かがわ工房展」トークのことは伊藤さんにお任せして。

フランスの徴兵制の導入検討のニュースとオリンピックのニュースをききながら、リレハンメルオリンピックのスケート競技を思いました。

サラエボオリンピックのメダリスト、カタリナ・ヴィット。
ユーゴスラビア紛争で破壊されたサラエヴォへむけた、『花はどこへ行った』を。

去年のノーベル賞の授賞式のパティ・スミス。

熟慮‥。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2018-01-18

17:16

ムサビ卒展。
シャトーで展示をしてくださった池上さん。
着た人のいる洋服を解いて再度仕立てた作品。
気配や痕跡が新しく立ち上がる。
美しく。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2018-01-05

00:46

どれだけの方の目に触れているかわからないのだけれど、他の言語でも見られるように、このアーカイブを作ってくださった須之内さんにご相談しました。

google翻訳で、日、英、中国語、韓国語が選べるようになりました。固有名詞を固有名詞として訳してもらうのにはどうしたらいいかとか、googleくんに覚えてもらうのにはどうしたらいいか、とか。???な翻訳があったりして面白い。でも、とにかく、いろんな言葉があるんだよね、ってところに立つ(笑)。

まだまだいじっていったら面白いと思うのだけれど、チェコ語とかイスラム語とかエチオピア語とか、アメリカ語ではない言葉がピコって載っていたら面白いかな、とか。世界中でたくさんの言葉が死んでいっているって言われているしね。

  • MiyashitaMiho
  • プロジェクト本番

2018-01-03

12:04

一昨年の春、写し絵のワークショップをしました。
今年の一月、あらてめて、もう一度、子供達と一緒にやってみようと思います。

影絵と間違われることが多いのですが、写し絵と影絵はまったく異なるものです。

写し絵の作り出す造形は、形を結んだかと思うと次の瞬間にはその形は歪み、崩れ、光の中で異なるものになっていきます。とても巨大な蝶にもなるし、豆粒のようにもなる。意味や名付けを超えていきます。これは写し絵という表現の方法と技術の特性です。

私たちははじめて出会うものの出現に、意味を探し、名をつけることにとても躍起になっています。わからないもの、の出現が恐怖でもあるのかもしれません。でも、名付けをしてしまうこと、意味を付してしまうことで、あっという間に私たちは新しい眼差しでそのものを眺めることができなくなります。思考もとまる。わからないものに出会った時の衝撃は名付けによって、即座に社会化されて定置され、それだけのものになってしまいます。その多くは他者から持ち込まれ、他者によって名付されたもの。そして、なによりも怖いのは、それはそれ、もう、わかったよ、と問い続けることをやめ、そのものから新しい発見が生まれにくくなってしまうこと。考え続けることや探し続けることをやめてしまうことは、ちょっと大袈裟だけれど、大きな社会の既成の価値に巻き込まれてしまって、そこでそれぞれの人がそれぞれの人なりに思考する手足を失うことにもつながる、大袈裟に聞こえるけれどね。

林道郎『死者とともに生きる ボードリヤール『象徴交換と死』を読み直す』から引用。
太字はボードリアールからの引用、中は林さんのテキスト。

・・・・・・ 

私は思うのだが、イメージは、表象化のはるか手前の直観や知覚の段階で、直接我々に触れることができる。このレベルでは、イメージとは常に絶対的な驚きである。少なくともそうでなければならない。

このイメージは、意味や表象の網目によって捕獲される前の触覚的な脅威の可能性を宿しているのだが、残念なことに、このような「純粋状態」にイメージが止まることはもはや不可能に近い。


イメージの潜在力は、大抵の場合、人々がイメージに語らせようと望むものによって遮断されてしまうからである。

そして、既成のコードに従って、意味の覆いで隠され、現実に統合されてしまう。

イメージは、最も多くの場合、そのオリジナリティ、イメージとしてのその固有の存在を奪われてしまい、現実とのは恥ずべき共犯関係を強いられている。

・・・・・・

写し絵は、この、根源的イメージが「意味」に絡め取られることから逃れ続ける営みでもあり得るのかもしれません。ずれ続ける、「意味」になる前に変容していく。意味と名付けではなく、わからないもの、変化し続けるものとしてそこにあることに、対面しつつ持ちこたえる、そんな経験でもあると思います。もちろん、写し絵という技術は造形的に、奥行きや時間、色や光の奥深い表現が可能なものでもあるのすが。

目の前に立ち現れたものについて、何の前提や誰かがつけた名前や価値もなく、根源的な驚きを持って出会うことは、とても大切なことだと思います。
このことに、子供達と一緒に向き合ってみたいと思います。

上下とも写真撮影:松田洋一

  • MiyashitaMiho
  • ひらめき

2017-12-30

09:44

映像作家大木裕之襲来(笑)。自宅。

同世代のよしみ?話はあちらこちら。
世界史から映像のこと、大木さんの大好きな牛乳のこと‥。

人を自分の思う通りにしようとしないこと、相手が子供であっても、自分のしていることがどう考えても良いことであったとしても、他者の選択、意思を尊重し続ける距離を維持すること、これはワークショップなどという名の下に子供達の前に立つことがある私たちにとって大切なこと。

大木さんと、そのための尽きない訓練が必要だよね、というところでハイタッチ(笑)。
良いことであるかどうか、ではなく、他者を他者として尊重する中で交わされる息の長い創造的な会話あるいは会話的応答を維持し続けることは、わかった貌をして子供達を自分の世界に引き寄せるよりずっと大変だし、忍耐がいる、理性と知性、想像力が必要。これは当然大人同士でもね。

『あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。』ガンジー語録をめぐって。

消費社会の中で加速度的に大量にさらされる情報、扇情的なメディア、SNSの中で内向するコミュニティ。そんな中で「世界から変えられないようにする」ことは生存のためにとても重要だ。そのために表現やアートは、もしかしたら少し大切かもしれない。合目的に、ではないけれどね。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2017-12-15

10:49

たてつづけ

昨晩、就職氷河期の7040問題というのをNHKで特集していました。
日中は、東京都でももっとも大きな障害者施設の見学に伺いました。

そして、久しく積んであった林道郎 『死者と共に生きる ボードリアール 象徴交換と死 を読み直す』と、『静かに狂う眼差し: 現代美術覚書』、MOMA で行われた戦後日本の『MOMA tokyo 1955-1970』の、林さんのテキストをめちゃくちゃに読む。

『象徴交換と死』が日本に紹介された頃、ちょうど大学生だったのかな、もうちょっと前だったのかな。
アンリ・ルフェーブルの弟子とも、この度初めて知った。本体のことは忘れてしまったけれど、大変明晰な、林さんの読み解きに、随所に目から鱗。感動さえ覚える。

車屋美術館の『栄光と終末、もしくはその週末 / Week End』をみても、栃木への道中から、地域は荒野、その荒野でどうやって表現が生まれるのか?って考える。と、これは、地政学であり、都市論でもある(当然)。

小学校での日々の子供達の言葉や振る舞いも重なって、あらためて、この時代の表現って?としゃがんでかんがえてみる。

これも。

http://abstract-art-as-impact.org/abstract_art_as_impact_jp.pdf

  • MiyashitaMiho

10:33

遠足が終わってしまった‥。
この、アーカイブを作る時に、忙しくても書き続けられるものをと指向したけれど、なかなか難しい。

遠足にも本当に大きな気づきがありました。
そして、その後の小学校。

本町小学校=想起の遠足本町編
緑小学校=森に風景を作る

も、佳境。参加者にも毎回壮絶な?気づきがあります。

来週はそれぞれの学校が最終日を迎えます。
いろんな形で記録しています。あらためて公開。

  • MiyashitaMiho

2017-11-21

03:01

DSC_0582

11月20日(月)

想起の遠足が終わり、引き上げてきた様々な物が山積みで机の上も通路も埋まっていた事務所、何とか事務作業出来る位に片付きました。

詩乃さん頑張りました!

  • IshiiMari
  • つぶやき

2017-10-16

16:27

明日のギャラリーレンタルに備えて、奥の斜めになってるところのでかい板を外して物置にしまった。

しまうために、まず物置の中身を出して、ヒイヒイ言いながら、でかくて重い板を外して運び込む。

やればできるもんだ。

でも二度と一人ではやりたくないけど。

ということで

全部一人でやったの!

とアピールのために投稿。(笑)

  • IshiiMari
  • つぶやき

2017-09-13

12:39

この夏、アートフル事務所内、大胆に配置換えをしました。大きい移動は終わりましたが、時間を見つけて細々とした片付けをしています。

片付けすぎると使いづらいし、適当だと結局片付かない。わかりやすくて出しやすくしまいやすい、いい塩梅に収まった時の快感といったらないです(笑)

いい塩梅を見つけるには、ときに発想の大転換が必要だったりします。例えば縦に使うのが当たり前と思っていたものを横にしただけで、その空間の可能性がものすごく広がることもあります。

なんでもないところからの再発見って、アートだよね、と、片付けながら一人ほくそ笑むのでした。

  • ItoAsuka

2017-09-09

01:01

宮下さん、詩乃さん(途中まで)、市民スタッフのよしこさん、正恵さん、植木さんと一緒に、これまでの芸文計画、主に学校連携事業でできたこと、課題、今後の課題、可能性について話し合いをしました。

今日はカフェも盛況、ギャラリーも展示中、事務所をシェアしている小金井こらぼさんも活動中ということで、我々もランチやコーヒー、美味しいあんぱんをいただきながら、隙間を縫うようにして話し合いました。

そうしている中でも、プロジェクトのお手伝いにスカウトしたいと言っていた方がたまたまお客さんとして現れたり、よしこさんと植木さんが合間に全く別の仕事のやりとりをしたり…このつながりって、ネットワークじゃなくてパッチワークに近いような気がします。

  • ItoAsuka

2017-08-15

14:43

夏休みは、まだ、ありません‥。

でも、なんというか、ここシャトーは、もしかしたら、ちょっといいところかもしれない、と思い始めました。

シャトーは、もともといろんな人が集まりますが、ここ数日、超特大大掃除をして、連日の力仕事の真っ最中なのです。そにに、小学校に入るかどうか、くらいから一緒に活動しているアキラ君が、ノコギリ振るって、カナヅチ叩いて、棚作りリーダーの清水さんを助けて、片付けを進めてくれているのです。もちろん、大人も働いてはいるんですよ。

でも、二人のところから漏れ聞こえるに、清水さんがちょっと数え間違ってしまったりしたことを、アキラが修正したりもしています。阿吽の呼吸で、いい感じです。清水さんが、いろんな子供をすっと受け入れて、年齢とか性別に関係なく一緒になんでもできる人、そして、アキラもなんとなく素直に委ねていたり、ちょっと嬉しそうだったり。そして、私は辛いことは二人に任せていたり。

(カフェのあべちゃんに眠いと言うとあべちゃんはコーヒーを淹れてくれる、練乳アイスを買ってきてもらう事もある‥)

外ではスペシャル素敵なお掃除のおばさんとカフェのあべちゃんが立ち話をしている。時々子連れで出勤してくる人もいる。ちょっと赤ちゃんに遊んでもらったりって、なんていうかね、素敵でしょ。

閑話休題。

 

 

 

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2017-08-10

11:13

知らないことがたくさんある。

カマキリの脱皮。今朝、車を出そうと思ったら、ワイパーに引っかかっていた。

はて、カマキリは一夏の生き物なのか、何年も生きて、なんども脱皮するのか?

知らない‥。

先週、アピチャッポンの展示、バスハウスで。

http://www.scaithebathhouse.com/ja/

後からわかったけれど、同じ時間帯にギャラリーに来ていた人に、翌日別のところで出会った。同じ展示を同じ時間に見て、知り合いでもなかった人の感想を聞いたら、全く、私が気づいていなかったことをたくさん見ていた。そういうことだったんだねーと、思ったり、うーん、と思ったり。

違うってことを毎日知ること、なるほどな、って思うこと、大切だ。

このカマキリ、どこに行ったんだろう。

 

 

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2017-08-02

22:39

Windowsマシン攻略中

事務所の片隅で、まるでPC初心者のような真剣さで古~いWindowsマシンに向かって作業する我らが事務局長。Windows初心者だそうで。今日でもうWindowsマシン達人ですね!

日々、地味で意外な作業がいっぱいあるものです。
(これは「みそ!」なのだろうか)

  • IshiiMari
  • つぶやき

11:40

色んな事があり、ストップしてしまっていました。
そろそろまたネジを巻きなおそうと思います。ごめんなさい。

先日ダイアローグインザダークに行ってきました。
あの場所での開催は8月までらしいです。

純度100%の暗闇の中で、歩いたり、座ったり、話をしたり、飲み物を飲んだりします。
それはとても素敵な体験でした。
感じたことがいくつか。

みることは、見えることだけじゃないこと。暗闇の中のゆたかな世界。
暗闇は怖いけれど、どこか不思議と安心したこと。
暗闇の中で体温や手のひらが語ること。
見えないのに、見えたような気がした一瞬があったこと。
長く暗闇にいると、目の前に白い記号のような模様が見えてきたこと。

そういえば表現も、もとをたどれば、真っ暗闇の洞窟の中から生まれたものでした。

アテンドをしてくれた視覚障がい者の方が、まるで見えるかのように暗闇の中を自在に動いていて、
どうしてわかるのと聞くと、「空気の流れ」だといっていました。
目で見ることとはまた違う、彼のみている世界はきっとすごく豊かなんだと思いました

目で見るだけではない、みること。
言葉で語ることだけではない、語り。
その人の在り方、生き方で伝えること、伝わること。
伝えること、つたわることの多様さと豊かさは私が忘れているだけで、いつでもすぐそこにあるんですね、

  • 荒田 詩乃
  • つぶやき

2017-07-29

22:51

毎日おかげさまで楽しく生きています(笑)。土曜日、「リーディング ドイツ同時代演劇リーディング・シリーズ」を、ドイツ文化センターで見てきました。

https://www.goethe.de/ins/jp/ja/sta/tok/ver.cfm?fuseaction=events.detail&event_id=20986282

言葉、ことば、の可能性について、もっと考えることができないかな、という興味です。

行く前に上記のURLの文章を読んでいきましたが、見終わってもう一度その文章を読むと、脚本を読むだけに見えた芝居が、ああ、多層的で面白い構造を持った芝居になっていたな、という感じもしました。

そして、学生の時の土曜日のように、次はギャラリー。

Takuro Someya Contemporary Art 「ラファエル・ローゼンダール」の最終日。この作品はタペストリー。何か、これまでのデジタル作品の規則性と繊維の規則性が面白い風合いで対照される。

自分達だったら何ができるかな?と。帰りながら考える、有栖川。

 

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

22:26

何年間も小金井の小学校でお世話になって、連携授業をさせてただいた先生と久しぶりにお話をしました。

私たちは小金井市の芸術文化振興計画の推進事業の実施を受託していますが、その経験から得た様々な知見(というほど偉そうなものではなく、チケン、くらい)を、もっと洗練させたり、新しい課題への取り組みにつなげていきたいと思っています。

昨日お話をし、これまで連携したことのない団体、大学との連携、これまでやったことのない方法での実施などを、例えば資金の調達方法なども含めて考えていけると楽しそうだと思いました。NPOにとっても、新しいチャレンジは常に必要です。

連携授業やワークショップをパッケージ化せずに、小さな発見を見逃さずに柔軟に、丁寧に、何が本当に必要なのかを謙虚に考えながらやっていくことが大切なのだろうと、再確認した次第です。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2017-07-24

17:22

シャトー界隈で有志メンバーが行っている「近現代美術史研究会」に、八王子医療刑務所の取材をされた巡田さんにお越しいただいて、お話を伺いました。

一見すると社会の中の特別な出来事、特別な場所、と思えるところも、皆、私たちの選択の結果であり、社会全体の価値を表現しているのではないかと思います。

インタビューの最中、ラ・ボルトの精神病院

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%89%E7%97%85%E9%99%A2

のことを考えました。開放病棟で、誰が患者で誰が看護する人なのかわからないと読んだことがあります。社会がある出来事をどのように扱っているのかを丁寧に見ることは、その社会の本質を逆に照らし出しすことにもつながります。

当初は、取り壊しを前に建築的な価値をどう残すか、記述するかを考えていました。が、日頃、私は優れたアーティストとは、その時代に起こっているできことの本質を端的に見抜き、アーティストの身体を透過させ、多くの人に向けて、「表現」として昇華させることができるのではないかと思っています。そこで、ある種のアーティストは、このことをどう考えどのように向き合うことができるのか、もう少しじっくりと考えてみる必要があると思いました。

でも少し急がなくっちゃね。

みそ!、継続‥。

 

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2017-07-23

21:23

告白。

ごめんなさい、大切なワークショップもあったのですが、この日しかいけず、国立新美術館、ジャコメッティ展に行ってきました。展示以外にもう一つの目当ては、

「アルベルト・ジャコメッティと詩人たち」 桑田光平(東京大学 准教授)

という講演。

デュブーシェという詩人が30年以上とても気になっていて、その詩集は、日本語で簡単に手に取れる(と言っても、かなり手に入りにくいけれど、年代的にね)ものは多分1冊だけですが、桑田さんはデュブーシェに関するテクストも書いておられる。これはいかなくっちゃって。

http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/24443/1/ff03608.pdf

もう一つ、人にとって描くということはどういうことなのか、という日頃の疑問に、とても丁寧に明晰に答えの一つを提示しているように思えるのが、矢内原伊作の「ジャコメッティ」(みすず書房)。ジャコメッティが矢内原さんを描いたスケッチも見ることができました。

会場の入り口、最初の女性像は、描くかのように作られたようにも感じました。時間も空間も、彫刻という物?の中に込められていて、みずみずしく、とても心惹かれました。

 

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2017-07-17

15:09

16日午前中、府中市市民活動センター「プラッツ」オープニングイベント

http://www.fuchu-platz.jp/event/1001997.html

にお招きいただいて、「アートプロジェクトをやってみよう」と言うタイトルの下、熊谷薫さんと詩子さんとお話ししてきました。

詩子さんは、

「暮らしと表現の芸術祭フェットFUCHU TOKYO」という地域密着型アートフェスティヴァルや、

http://uma-merdre.com/

を、運営されていて、後からああああ、と思った時はもう遅い、自作楽器を作っておられるお連れ合いステファン・芝辻ペランさんのことは、いろんな人から聞いていた。

詩子さんたちは、アートフルアクションのように、行政の計画があって動き始めたものと違って、表現したい人たちが集まって、工夫しながら街中を舞台に活動してきた。出自はもしかしたらまったく逆かもしれないな。だから、なかなか参考になるお話なんてできなかったかな。

でも、実は、いろんなやり方があるのはなんたって、とても大切だし、いろんな人がいることを間近に知ることも大切。いろんな関係が広がっていくと面白いな、と思って帰ってきた。知らないことはたくさんある、知らないことを知ることで、自分たちの特異さや得意技が見えてきたり、これやってみよう、とか、ね。

  • MiyashitaMiho
  • プロジェクト本番

2017-07-16

05:54

世田谷区の生活工房に行ってきました。

ワークショップの最中に、施設のリニュアルに向けたアンケート。

お答えいただいた方にはチュッポチャップスとスターバックスのコーヒープレゼント。そして、多分スタッフの方でしょうが、こんな格好でインタビューし、その答えを丸い付箋でボードに貼っています。

答えやすいし、指摘された課題もわかりやすいですね。チュッポチャップスに吸い寄せられて行ってみましたが、楽しかったです。

ちなみに、私の施設のリニュアルへの提案は、とても良い施設だと思いますが、人工物ばっかりだから、有機物を施設の中にぶち込んだらどうか?というもの。直線ばかりの建物の中に植物や泥があったら、もっと面白いよね。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2017-07-15

20:49

今日ははけの森カフェにて、tarlの授業でお話しさせていただく機会があり、アサダワタルさんと一緒に講師として参加してきました。人の前で話すことの難しさよ。。
だけど、去年の資料を眺めて資料を作ろうと苦闘しながら、本当にたくさんの人によってこのプロジェクトはできていたんだなということを思い出しました。関わってくれた色んな人の顔を思い返しました。お話を聞きに行った時のことがよみがえってきました。話をするということは、たちどまって振り返ることであり、丁寧にもう一度見つめなおすことだと感じました。そんな機会をいただけたことがとてもありがたいと思っています。

「体験を紡ぐ」というテーマのtarlの授業。紡ぐのは一体誰なのかな、と大切な問いをもらいました。
プロジェクトを作るのは誰なんだろう。アーティスト?スタッフ?メンバー?観客?
スタッフやアーティストの状況や生活がそのプロジェクトを変化させていくように当日やってきた観客や参加者の状況がそのプロジェクトを変化させることもあると思います。
それぞれがそれぞれのポジションで紡いでいく、プロジェクトは大まかにいうと観客も含めて準備から本番まで共同作業なのかもしれません。なんだか演劇的。

たくさん間違えることもあり、反省しつつ。引き続きゆるりとがんばります。

  • 荒田 詩乃
  • アサダワタル
  • プロジェクト本番

2017-07-10

11:12

みそ!なのに、プロジェクト本番?

8日土曜日、調布まちづくりの会にお招きいただいて、「連携」についてちょっとだけお話しさせていただきました。話は苦手(笑)。

1時間半、とっちらかった話を聞いていただきました。ありがとうございます。

施し、施される関係を超えるためには、一見して、弱者?、施される側、と思われる市民も、本当は弱者でもなんでもなく、とても創造的な主体であるということを、まずは皆が感じることが大事かな。

相応の負担というのも難しいけれど、今、この時代にこの社会で生きていることを、もうちょっと平たく考えながら、何ができるか、したいかを暮らしの中で考えて、実践できたらいいなあ。もうちょっとかっこいい言葉がないかな。

継続審議。

 

 

  • MiyashitaMiho
  • プロジェクト本番

2017-07-06

09:59

松本さんとの対話を引き継いで、今度は下中菜穂さんと、電話で。

記録をめぐってやりとり。

「記録が記憶になること」これはとても大切なことかもしれません。

 

  • MiyashitaMiho

2017-07-05

12:01

今年は様々な活動を振り返りつつ、将来を見通すためのツールとして、記録の取りまとめを考えています。

そのために、前方(!)に向けた創造的な「記録」作成、多分、違う角度からのプロジェクトの読み解きを、創造的に行っている方々に話を聞いています。昨日は、松本篤(remo)さんにお話を伺いました。

面白かったなあ。

不在の存在

受け手のための余白を残す

みたいなこと。

でも、伝えるということの前に、「わかる」ってなに?

とか。

同席してくれた梅本さんから、議事録をいただくまで、ノートメモ。

 

  • MiyashitaMiho

2017-06-24

12:52

写真美術館の

ダヤニータ・シン インドの大きな家の美術館 展に走って?行ってきました。

https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-2778.html

奥行きがあって美しい写真。

そして、面白かったのが「移動ミュージアム」。英語では、portable とあったので、移動、より持ち運びができるってことなのかな?

私たちが移動展示システム(仮称)のはら1号を作ったのは、誰にでも表現することができるんだ、ということを具現化するため、だったと思っているのだけれど、こちらはやや「作品」。

でも、展示全体は、時間軸が重層的なこと(制作時期が異なるものが新しい作品として新作の中に織り込まれる)インド社会の多面的な層の空間的な広がり、そして、美術館の中に美術館、そして、写真の中に映り込む美術館。

美しく見えてしまうことの「問題」とか写真というものの可能性と限界みたいなものもあるけれど、面白い展示。

もう一つは、写真美術館って、ユニバーシティに対して、カレッジみたいな感じがして、結構好き。狭いところから広いところにスコープが向いていて。

拡大して、笠原さんのテキストを読んでみてください。右端は、おまけでついてた絵葉書。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2017-06-21

09:47

子どもから風邪をうつされ、
休もうにも、すっかり回復した子どもが遊べとうるさく
寝るにも寝れない荒田です。
子育ては体力勝負ですね。

HI-Blood Pressure 展の18日のWSの件で、
ちょっと個人的にはたくさん考えることがありました。
夫に声をかけて参加者として参加してもらいました。
けれど、夫はその体験がとてもつらかった。
もう何が起きたのかを考えることすら彼の中では抵抗があると言うのです。

彼が何かに対して反対表明をすることは珍しいので、
そこまでのアレルギーはどこからきたんだろう?と思うのですが、そこは少し置いておいて

なんでこの人はこんなに頑固でわからずやなんだろうと思いながら、ふと気づいたんですね。

私は価値観を押し付けてるんだなと。
私は表現が好きです。表現に関わるプロジェクトが好きです。
そして、それがひらいた場であるといいなと思っています。
だけど、無意識のうちに、そのこと自体を押し付けてることもあるんだなと思いました。
これまでもそうだったのかもしれないな、とも。

だけどどうしたらいいんでしょうね。
本当に難しいですね。

色んなありようを受け入れるってことは、
色んなありようを受け入れたくない人も受け入れる?ってことで、
それって結局いろんなありようを受け入れられなくなってしまう?
うーん。。

ただ今思うのは、
場には様々なパワーが生まれること、
それが誰かにとっては心地よいものであったり、誰かにとっては心地よくなかったり、
そこに無関心でいちゃいけないし、
自分の中にもそういうものがあること、それを忘れないようにできたらいいなと思います
完璧じゃないからね。忘れたりね。でも決して完璧じゃないこと、きちんと覚えていたいです。

ひらいた場とは?考え続けたいです

  • 荒田 詩乃
  • つぶやき

2017-06-20

19:22

Hi-Blood Pressure展での出来事。

アーティストのインストラクションを、市民が実現する。この場合は、アーティストの頭部を、アーティストではない男性が作るというもの。何か、ブツが出来上がる。

参加した人は、まだ、いまひとつこの出来事がなんだか腑に落ちない。何?

ブツが出来上がれば、the 展示としてはいいのかもしれない。

「?」を、持ち帰った人たちが、明日から世界の見方が少し変わればいいのかもしれない。

でも、このことが何だったのか、参加してくださった人には尋ねたい。

アーティストには、自分のアイデアや想念が作品=ブツを作ることを媒介として、他者に伝搬し、一人一人の経験として歩き出したその歩みをどんな風に思っているのか、尋ねたい。

せっかく一人ではできないことをしているのだから、なんて、これを見ながら考えるー。

  • MiyashitaMiho

19:08

Hi-Blood Pressure展、会期前に市民の方々とポーランドのアーティストとのワークショプが進んでいます。参加するのも市民、それを支えるのも市民です。

6つのうち1つのワークショップでは、小学校に出かけていきますが、鍋とか柄杓とか、いろんなものが必要です。こういうのがいいのかな、ああいうのがいいのかな?と、夜になっても、参加してくれる皆さんは知恵を絞ってくれています。中にはマンションの  置き場から、鍋をゲットしてくださる方も。

こういうやり方を、誰かが決めたり、定めたわけではありません。でも、どんどん、鍋が集まったり、アイデアが集まる。メールとかメッセンジャーのグループとか、コミュニケーションの方法が多彩になったこともあるけれど、やっぱり、これをやってみたいとか、これってなんだろう?って思った人が、伝え方を工夫し、声かけを工夫し、有機的に拡散していったり、集約していったりの、ダイナミズムを生んでいるのかな?なんて、夜中に思う。

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2017-06-19

10:48

朝、ファミマに寄ったら入り口にかっこいい自転車が停まっていて、しかもハンドルにはコーヒーの麻袋に入ったワラが掛かっている…あの紙やビニールの米袋じゃなく、コーヒーの袋なところがまたかっこいい!…これはもしや…と主が出て来るまで待ってたら、やっぱりTさんでした

「これはTさんしかいないと思った」「絶滅危惧種よね〜」ってひとしきり大笑いしたあと、「こんな人がもっといっぱい出没したら面白いのにね」という話をしました。いろんな変なものが、町の中をむやみやたらと、しかも普通に移動してたら、面白いね〜(^^)

「変な」というのは、きっと日常の中にあったら異物になるようなものではないかしら。街にとっては、日常の中でワラは異物だけど、Tさんにとってはあんまり異物じゃないに違いない。ということは、街の受け皿が大きくなれば「変なもの」はどんどん普通になっていくのでしょうね。変と普通の境って、曖昧なもんだなぁ。

  • ItoAsuka

2017-06-16

09:38

学芸大学と連携して、この春制作した小屋に、ついにヤギがやってきた。

本当は?この、ヤギの引越しを、映像作品にしたいという野望もあったのだけれど、ちょっと実現できずそれは少し残念。

お母さんとこどもヤギのようです。作ったもの、やったことをどんな風に展開して、次につなげていくのか?面白い。

 

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2017-06-14

04:41

一昨年度、本町小学校で実施した写し絵のワークショップ。その後、アーツカウンシル東京の個別の助成も受けて、子供達と絵を描き、写してみました。

昨晩は、かねてからやってみたいと思っていた実験。夜、野外で写すとどう見えるんだろう?と、ハケの緑地で、真っ暗になるのを待つ。

たまたま背景にあった木々や葉の形を映し出したり、像は形を結んだり、ほぐれたり。室内の壁面への投影は、壁を選べは図像はよく見えるけれど、地と図はあくまでも、地と図。屋外だと、地と図は時に反転し、崩れ、ほぐれ、また、身を結んで、なんだかとても面白い。

言葉だと、なかなかわからないけれど、地と図が縦横に入れ替わるのって、時間感覚も崩れていき、面白い。時間と空間の関係も新しく感じる。もっと、突き詰めてみたいもの。

暗いから(笑)、写真は無しね。

 

  • MiyashitaMiho
  • ひらめき

2017-06-08

14:18

小学校に導入されるプログラミング教育、良し悪し、やる、やらない、ではなくて、どうしたらより良い方向にいけるのかな。昨日、カウンシルの方に紹介してもらった。面白いな。

http://artscape.jp/report/curator/10135748_1634.html

 

 

  • MiyashitaMiho
  • つぶやき

2017-06-05

23:26

近くの大学の先生とこれまでお世話になった小学校の先生と教育系の学会にこれまでの地域と教育現場の連携の事例から、課題と可能性とを巡って発表をしようかと、相談中。

小金井の場合には、授業の企画や材料調達などは、各学校の先生と相談して、かなりの割合をNPOが担ってきた。それは小金井市には芸術文化振興計画があって、それによって財源も、方弁も立つから。なので、いきなり一般化することはできないけれど、この間の経験で、もっとも必要なことは、NPOの中間支援者としてのあり方ではないかとは思う。

中間支援って言葉は、なんだか少し堅苦しくて苦手だし、「支援」っていうのも、何だか高飛車な気がする。それは置いておくとして、もう少し、右と左をくっつける、とか、どこかから何かをとってきて、the「紹介」する、ということだけでない、見えない需要を切り開くことが、可能性としてあるんじゃないかとも思う。

たとえば、デザインとか設計という行為は、目的を定めて具体的なものを作る(たとえば図面を書いてプロトタイプを作ってヤカンを作る、とかね)ということだけではなくて、何が欲しいかよくわからない人たちに対して様々な事例(たとえば柄杓とかバケツとか、手で水をすくってみるとか、頭からか水をかぶってみるとか)を引きながら、用途を聞きながら(たとえば、花に水をやる、とか、お燗をするとか、お湯を沸かすとか、コーヒーを入れるとか、、足で持つとか)、行為を連想しながら、結果として新しいヤカン像を作ることかな。

あるいは、デザインとはこのプロセスの中で、ヤカンの底に穴を開けて、植木鉢にする方がどうもいいらしいとか、天井から吊ってみようとか、全く想定されていない用途を自ら導き出すようになプロセスそのものではないかと思う。そして、さらに、そのもの(ヤカン)を作ることで、自分の日課や振る舞い、価値観が変わるようなことだってある。

単に、右のものと左のものもマッチングさせるだけではない、出会い方や発見ができるといいな、と思う。そして、この方法は、シンプルな課題解決(知っている人が知らない人に教える、たくさんありすぎる仕事を手伝う‥)だけではない、根本的な発想の転換から、新しいヴィジョンを導き出すことにつながっていかないかな、と。

もうちょっと、https://www.codeforamerica.org/ も、学んでみようか。そもそも、人が物事を学ぶって、何だろう、とかね。教育系の学会だし。

 

 

 

  • MiyashitaMiho
  • ひらめき

2017-06-02

22:38

先日、「老いと演劇」OiBokkeShiの菅原さんのお話を聞きにいく機会がありました。

社会福祉士であり、俳優の菅原さんは、介護に演技を取り入れるとともに、ご高齢のかたと一緒に劇を作っています。

素敵だなと思ったのは、彼が、一緒に作っている看板俳優の方(もう90歳を越えているのだそう!)に、出会って、この人と一緒に劇を作りたいなと思って、今もその人に与えられた監督という役を演じているのだと言っていたこと。
なんだか最近ご高齢のかたやハンディキャップを持つ人に対して弱者という言い方をたまに聞きますが、そういう言葉はなんだかすきになれません。様々な人と出会い、お互いに尊敬し、共に作るということからきっと何かが始まるんだなと思いました

奈義町、ちょっと遠いですが、
この劇団の演劇を見に行きたいなあ。

  • 荒田 詩乃

2017-06-01

14:30

病み上がり伊藤です。

今日は保育園PJについて考えました。

今まで1園1園でやってきて、どんなにPJの規模が大きくても、壁を越えるのはとても難しかった。守るために必要ではあるけれど、阻むものがあると、人生窮屈。

今年度プレパと組んでPJをやるなら、どんなことができるか、妄想を膨らませました。川や野原で、子供たちから溢れる言葉や発見や動きを丁寧に拾って大きな布にマッピングしたら楽しいんじゃないなぁ。でも、市の事業として対象があんまり少ないとよくないのかなぁ、などなど、キッズルームの事務所で考えておりました。

何かをしてあげるのではなく、何かが生まれるところにていねいに寄り添い、見つめることで本質が見えるんじゃないか、と思いました。

  • ItoAsuka

09:01

アートフルアクションでは、学校連携事業で、小学校では使わない丸鑿(のみ)を使って、硬い硬い桜の木を削って船を作ったり、鉈で竹を割ると言った活動をしてきました。

ここのところ気になっていた『職人の近代』(みすず書房)http://www.msz.co.jp/book/detail/08593.html

著者の土田さんと武術研究者の甲野善紀のトークを聞いた。

詳細は主催者のこのページに詳しいですが、随所に、ものづくりのこと、身体性、技術と社会の関わりについて、とても大切なことが語られていました。

「道具の後ろに見えてくるもの――日本の鍛冶文化・近代の歴史をひもとく」 土田昇 × 甲野善紀 トークイベント

本当の意味の合理、理にかなうということを巡って。そして、人を育てる、というくだりでは、優しさと厳しさと諧謔と、という言葉も印象的でした。

鍛冶屋さんとか左官屋さん、大工、木挽職人、漆職人とか膠の職人、もっといろいろな技術が、社会の需要がなくなって、暮らしから消え行こうとする。あるいは消えていった。その技術を惜しみながら見送るのか、その技術の必然がなくなっても、形骸であっても模造し続けるのか?という、二者択一ではない道がどこかにあるような気がする。

例えば、AIがいいか悪いとか、ECTがいいか悪いのか、という択一ではなく、もっともっと、人の本質を問うことから発想し続けることが第3の道なのかもしれないと。本当に必要なことは何か?人間って、なんだろうって。

根の切れてしまった「伝統」をよく学んで、どうやって足をつなぐのかを考えることも大切なことだと思いますが、暮らしの中にその必然がないとそれは娯楽になってしまうかもしれない(娯楽が悪いわけじゃないけどね)。

けれど、その一方で、根を継ぐことが目的なのか、人にとって何が本当に必要なのかを問い続けて、結果、必要か不要かはわからないけれど、鉋の刃が納得がいくように研ぎ出せたら、それが幸福、という人もいるかもしれない。その人は、飯が食えなくても、鉋の刃を研ぎ続けていられたらいい、かもしれない?ただ、根を継ぐためだけに、ではなく、その人にとって、大切なもの、ことに、出会えさえすれば、それはthe娯楽、ではない、かもしれない。

学校で、小刀も禁止される昨今、人の可能性ってなんだろう?って考えながら、小刀くらいは上手に使えたらいいなあ、と思う。

  • MiyashitaMiho

2017-05-29

22:12

物事の「種」と言う言い方はよく目にしますね。

話の種、みたいな感じ。そして、「種」は育つ、と言う、なにやらベクトルを感じる。

種が育って、次の世代を育てれば、それはそれでいいのかもしれないね。

ミソ、は、ただ、ミソ。育つと言うより、そこに何かいつもある。それ自体が熟成するかもしれないけどね。

何かやってみようっていう時、まずは、材料ややり方を調べたり、他の事例にヒアリングしたりってことは当然だけれど、私たちは実際にやってみるってことをずっと大切にしている。例えば、木で船を作ろうって時、桜の木がいいのか、ヒノキやケヤキがいいのか?何となく、ヒノキやケヤキの方が柔らかそうな気がした。でも、実際に二つを試してみると、針葉樹は木の繊維が縦にばっかり強くて、形にバリエーションが出てこない。作家の助言も得て、硬いけれど、きちんと切れる道具が揃えばむしろ安全な桜の木を使うことにした。その過程ではやってみないとわからないことがたくさんある。

子供達に手渡す前に、どの程度の難しさか? どんなサポートがあるといい? 何回くらいでできるかな? この過程からどんな発見があるか? いろいろな過程を踏まえて考える。

具体的なプログラムの前のおおもとの、どんなことを子供達に伝えたらいいのかな、を考えることと実験を往復すること、その経験の蓄積も、次のミソかもしれないな。

 

  • MiyashitaMiho

2017-05-27

20:11

状況や場に対して「何かができること」が
存在のあり方だといままで思っていたのですが、
赤ちゃんと暮らしていると、それとは全く違うあり方に気づかされたりします。

赤ちゃんはできないことがいっぱいです。
歩くこともできないし、話すこともできない。寝返りをはじめた息子は自分で寝返りをすると戻れずに泣き叫んで私達を呼びます。

でも、私にとって彼がいることはとても大きなことです。なんにもできなくても、ただそこにいる、それだけで誰かの力になることってあるんだなと思います。

「何かができる」だけではないあり方を考えたときに、人とひとの関わりはもっと豊かになるんじゃないのかなと。
様々な人のあり方を大切にできたらいいなと思う今日この頃です。

  • 荒田 詩乃

2017-05-24

18:12

出来事が起こり、その出来事が次の出来事を喚起する、でも、ちょっとずれていたり、途中で大きなアイデアが生まれたりって。「デザイン」って、合理的で無駄がない働きなようで、実はある種の予測不可能な不合理も内包している。でも、その予測不可能な不合理の混沌の中に、実は丁寧に読み解くと深い合理がある、ってことを、考えさせられますね。

アーカイブ、記録のことを考えていて、ふと、ブルーノ・ムナーリ『霧の中のサーカス』。友達に久しぶりに書名を聞いた。ああ、そういえば、学生の頃?流行ったな。

『モノからモノが生まれる』(みすず書房)の思想を具体的に体現しているのが『霧の中のサーカス』かな。学ぶことはまだまだたくさん。きっちゃんが図書館から借りてくれました。

 

 

  • MiyashitaMiho

13:07

みそというわけでもないですが…他にどの項目にしようか決まらなかったので…

朝まずゴミを捨てて、ちょびっと片付けをしました。6、7月と、まとまった時間で事務所に来られなさそうなので、コマ切れで備品の整理をしていこうかな、と思います(こういうの、ここの書き込みでいいのかな?)

備品が一覧表になっていて、どこに何があるかすぐわかって、貸し出しとかもスムーズにできたらなんてステキ!

だから、モノは元の場所に戻しましょうね。

ウフフ、それなりに「みそ!」でした(笑)

  • ItoAsuka

2017-05-22

16:04

石井さんが上智大学で続けておられる勉強会「青い花」にお邪魔して、神奈川県立近代美術館の館長水沢さんのお話を伺ってきました。

コルヴィッツ、パウラ・モーダーゾーン=ベッカー、ヘレン・シャルフベックを取り上げて、彼女らが生きた時代と表現について、縦横に(!?)。水沢節。楽しい時間でした。

パウラが亡くなった時にリルケがつくった詩、水沢さんが訳されたとのことですが、パウラの絵やリルケの妻の作品、パウラの夫のオットー・モーダーゾーンの作品を知らなければこの詩は訳せない、と言うお話も興味深かった。

ああ、それからそれから、芸大の黒田清輝が「本当に学び、研究している人のそばにいないと学ぶことはできない」と藤島武二を教員に招いた下り、面白いな、と思いました。

不穏な時代、コルヴィッツについても、もっと学ぶべきですね、私たち‥。

  • MiyashitaMiho
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08:40

平塚の美術館でやっている「リアルのゆくえ」展に行ってきました。

去年の本町小学校のプロジェクトでも、「描くということ」の意味について、参加した方々と考えてきました。この展示でも考えることたくさん。

入り口の高橋由一と磯江毅‥。1800年代の末から1900年代始めに生まれた人たちの絵と展示最後のコーナーに現れる比較的若い人たちの作品との違いってなんなんだろう。写真や映像が溢れ「見ること」の意味が変わった(かもしれない)時代に生きる今日の作家たちが否応無しに体現してしまう見ることそのものの有り様の違い?について、考えてしまいました。

一見すると地味な展覧会かもしれないけれど、一つ一つの作品の密度の高さと、結果として、全体に、なにやらとても重量のある展示だった気がします。

チケット売り場で見た高野野十郎の図録「遺稿」に惹かれ購入。描くということすなわち生きることなんでしょうが、それにしても、帯にある「甘美な世捨て」だったのかなあ。

  • MiyashitaMiho

2017-04-19

13:02

今日もいい天気。

しのさんと、事務所の整理について話してました。

●モノを片付ける。とりあえず棚の上の模造紙を、来週月曜日、写真に撮りつつ捨てよう、ということになりました。

●備品を整して、何がどこにあるか把握する。レンタルの方にすんなり貸し出しできるようにできたらいいな。

●備品管理その2。貸し出し表(何をいくつ貸した→返却がチェックできるやつ)があると管理しやすくていいな。

また、ギャラリーについては、レンタルした人に簡単なアンケートをしてもらいつつ、今後650メールを送っていいかという項目にチェックしてもらうのはどうか、という話をしました。不達や配信停止のご希望などで、現在580ぐらいになってます。

あと、いつこぼれちゃうかと心配だったので、紙コップに入っていたネジを、分類できるものは分類して、小箱に入れました。前小の六角レンチと、インパクトのドリル?が出てきました(^_^;)平井さんが探してたような気が…。事務所の机の上に置いておきますが、どうしましょう?

  • ItoAsuka
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2017-04-13

15:10

久々の事務所でした。

掃除をして、たまったチラシを分別してラックに入れました。ちょっとスッキリしたかな、と思います。

一昨年度はめっちゃ両面テープを使いましたが、昨年度はめっちゃクリップを使いましたね(笑)今ある缶にはいりきらないので、とりあえずビニール袋にも入れました。お家に大きめの缶やタッパーがある方、寄付してくださーい(笑)

本町小のガムテープは、事務所のものと一緒にして大丈夫ですか?

 

久々に佳子さんと会ったので、結構お喋りしてました。ちょうど話している時に、環境会議のおじさん(西何とかさん?)から佳子さんに電話が入り、「アートフルで、はけの風景に関する何らかの展示ができないか?」という相談でした。

中村研一やその他画家の作品から、近所の小・中学生のスケッチ、その他刷毛の緑にまつわるワークショップなどできないか、と。去年の小道とも重なるところがあったり、のはら一号の活動とも重なりそうだったり、そこにプレイパークが重なっても面白そうと思ったり、ちょっと面白い展開ができそうだよね〜ということで盛り上がりました。小金井は活動する市民が多いけど、うちわで固まる傾向が強い、という話にもなり、いろんな団体との横のつながりも拡げていくことも重要だよね〜、とも話しました。

あとは、今年の佳子も忙しくなりそうです(笑)

  • ItoAsuka
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2017-02-20

13:23

今日は久々に事務所で作業している気がします。

大量に来ていたチラシをラックに入れました。机の上がちょっとすっきりしました。

あとは、前原小、本町小のリマインド。前原小は今週ラストですね。

  • ItoAsuka

2017-02-10

11:39

吉川さん、永井さんと私立保育園園長会にプレゼンに行ってきました。30人程度の参加だったかと思います。

プレゼンとはいえほんの5分程度。昨年度のAA報告書と今までの保育園の活動資料、吉川さんの芸文の説明&ご挨拶のテキストを配り、協働して実施するPJである、というところを説明しました。

「施設のニーズに合わせて」「臨機応変に」というのは、経験がないからナンノコッチャかもしれないけど、と吉川さん。少しでも興味を持ってくれる施設が出るといいな、と思います。

 

 

 

  • ItoAsuka

2017-01-31

21:57

戦い済んで日が暮れない、まだ、終わっていませんが、4日のライブに備えて、6日の資材搬入に備えて、きっちゃんがギャラリーをかたつけてくれました。綺麗に掃除していあると、なんだか少し優しいですね。

3日は第四小学校の最終日、7日は前原小の初日です。

 

 

  • MiyashitaMiho
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2017-01-21

14:07

誰かが沈没していると、誰かが継続してくれているありがたさ。

昨日、4小の教室の5年生の踊り場に移動百科辞典を展示してきました。

やってみて思ったこと。能動的に見ること、をもっと突き詰めたらどうなるかな?

このシステムは、物理的空間を移動はするけれど、人の能動性を喚起するためには、展示内容、仕組み的にもう少し工夫が必要。教室の受動性でなく、俺だってできるよ、これどう?って、人が思えるような、隙間や余白も必要かなあ。

 

  • MiyashitaMiho

2017-01-18

13:02

前の用事がのびて、事務所に着くのが遅くなりました。ファックスのインク交換、重油の報告、ハサミの本数数えをしたら、もう出なければ行けない時間(^_^;)

まちはみんなのミュージアムだより、斜め読みしました。型のない自由、型があるおかげで得られる自由…開かれる形って、いろいろあるね。面白いね。

  • ItoAsuka

2016-12-19

13:36

午前中は伊藤さんと事務所のお掃除をしました。

掃除は楽しいです。物を捨てるという行為に不思議な高揚感がありますね。目に見えてだんだんきれいになるとほんとに嬉しい。事務所ちょっときれいになりました。

掃除ハイになってしまってかなりぐったり。午後もがんばります。

  • 荒田 詩乃
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13:27

今日は午前中、ウタレレをBGMに、しのさんと事務所の掃除をしました!

床もテーブルも見えるようになりました!

  • ItoAsuka
  • ひらめき

2016-12-18

00:11

定例の理事会。これから始まるカフェのことや年度末の事業について。話は藤田嗣治や中村研一の戦争画に及び。国家と芸術や戦争と芸術、近代的個人の自我とは何か?といったことを考えてみたいと盛り上がり(?)ました。マイナーな主題でも、「主張」や「対抗」ではなく、丁寧に、多くの人とともに考えていけると、単純な課題解決だけではないNPOの使命も果たせるのかとも思いました。まだ、これから。

  • MiyashitaMiho
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2016-12-16

09:09

来年早々から、はけの森美術館の裏手のカフェの運営をします。そのための飲食、家具、運営方法、広報などを検討中。ここの面白いところは、以前の所有者の中村研一の人生をトレースしながら、空間や内容を考えること。そして、古い中から新しいものを見出すこと。この間は飲食を担当してくれるお二人と石井さんと白洲正子の武相荘に行きましたが、大げさに言うと日本の近代について、もっと考えたほうがいいだろうな、などとも。

  • MiyashitaMiho
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