京都芸術センターで、グループ展『ケソン工業団地』(展示)を見る。
越境って、なんだろう?
何のために超えるんだろう?
超えた結果、そこに何が見えるのだろう?
展示の紹介には、
ケソン工業団地は、朝鮮民主主義人民共和国が土地と労働力、大韓民国が資本と技術力を提供して形成され、南北双方の人々が共に働く特異な場として2004年から10年以上にわたって操業されていた。しかし現在は両国間の政治的緊張のため2016年より閉鎖されている。
2018年の夏、文化駅ソウル284で開催された展覧会「ケソン工業団地」は、ケソン工業団地を外から見た大きな経済の物語として語るのではなく、そこで日常生活を送っていた一人ひとりによって築かれていた親密なコミュニティにフォーカスし、ケソン工業団地の新しい肖像を描こうとする企てであった。その展覧会から、3人のアーティストによる作品を京都で紹介する。
ケソン工業団地の本質的な意味は何だったのかを問いかける。越境が可能な限られた時間の中で南北の人々の交流が育んだ種は、いかに未来へ開かれてゆくのか(省略)。
とある。
最初の展示室にある工業団地を俯瞰した写真に移る団地。何かを超えて、ここに到るのだろうか?
もう一つ、
もし、これが、いわゆる写真展だったらどうだろう?
圧倒的な不在は圧倒的な存在の照り返しだ。その、圧倒的な存在は、いわゆる同じ画角のパネルが並ぶ説明、では浮かび上がってくることは難しそうだ。
遠くに声が聞こえてくる気がする。躍動や輝きや、懸命に働く足音が聞こえる。たくさんの喜びや時に悲しみや願いも聞こえる。
止まった日付が生々しい。その生々しさを相対として抽象し、普遍的な表現に持っていくこと。理由、ではなく、意味そんなことを考える。
今回の展示は韓国での展示の一部分であったようだ。全編をみてみたいと思った。
その時、さて、どこで?とも思った。そうだな、この展示は、ここで見るのにふさわしいとも感じた。